テーマ:美術館・博物館(1556)
カテゴリ:美術館・画廊メモ
自宅から2時間半もかけてようやく 宇都宮美術館 に着くと、武蔵野の風景画にこの身をおどらせて入り込んだような、味わい深い林に囲まれていた。
時間がたっぷりあれば付近を散策してもよいが、そういうわけにもいかない。 入り口左脇の、手水鉢を模した作品の水面から、木造の小学校のガラス窓のような氷を手にとってみた。自然の氷の透明に久しぶりに出会った。 一旦なかに入ると暖かで、図書コーナーで日がな図録を繰っていたい気分になる。 だか、そういうわけにもいかない。 杉浦非水展を見に来たのである。松山が生み、帝都が育てたデザイナー。わが郷土出身の、誇らかに思う人のひとりだ。 しあわせな人だったのだなぁ、非水は。 実父は松山にとどまることの出来ぬひとで、長男の朝武 (つとむ、のちの非水) は母方の杉浦家に3歳で預けられ、10歳のときに杉浦家の養子となる。11歳のとき、実母も亡くなる。 ここまではいささかの不幸を感じるが、それ以後わかいときから絵画の才能を伸ばす機会に恵まれ、21歳で東京藝術学校日本画選科に入学し、卒業の25歳にはフランス留学も計画。これは果たされないが、黒田清輝がフランスから持ち帰った資料を鑑賞・模写するうちにアール・ヌーヴォーの日本の先駆者となる。 32歳から三越での仕事が増えてゆく。 安定した収入。海外の最先端のデザイン資料を入手し自分のものにする機会。 欧州の新潮流の吸収が一段落して40代になると、三越の仕事は週に2日に減らして、浮世絵の自然写実を近代流に蘇らせたとも言うべき 「非水百花譜」 の大仕事をする。 50代になると、ポスターの仕事が多くなる。社会性が深い仕事だが、左翼イデオロギーに踊らされることもなく、やがて後進を指導する数々の社会的職務を全うし、89歳のとき、昭和40年には勲四等旭日小綬章を受章し、人生の一部とも言える三越で自らの日本画展を開催して、その3ヶ月後に死去する。 起承転結というより起転承結の、まことに円満充実した人生である。 * 非水の代表作といえば何と言っても、今でいう銀座線が上野・浅草間で開通した昭和2年のポスター 「東洋唯一の地下鉄道」 の、モダンでリッチな群衆がプラットフォームにひしめき、進入する黄色い列車頭部を左端に配した図案だろう。 有名な作品である。 アール・ヌーヴォーそのままの図案と思っていたが実物をしげしげと眺めると、和装・日本髪の女性が混じり 面立ちも西洋とは一線を劃していて、じつは <日本> が匂い立つポスターだ。 アール・ヌーヴォーを吸収するだけ吸収しつつもそれに乗り換えるのではなく、浮世絵など日本画の伝統をしっかりと握りしめながら、巧まずして新しさを社会に提供した人。 じつはわたしは非水について、アール・ヌーヴォーの本邦への導入者であるという、単にそういう認識しかなかった。 1月8日の日経 「文化往来」 に ≪「非水百花譜」 など動植物を描いた図案を大量に集めた第2展示室は圧巻だ≫ とあるのを読んで、これは見てみないといけないと思ったのが、宇都宮まで遠征した理由だったが、ほんとうに来てよかった。 「非水百花譜」 は、美しき花々を木版錦絵とシルエット版画、図鑑的写真と、様々な切り口で解剖してみせた近代的アプローチであるが、なかでも錦絵版画は幼い蕾から種子を結ぶ寸前までの草花の諸相を一枚の絵に収めきっていて、輪郭線のすがすがしさがモダンだ。 見れば見るほど完成度の高さが胸に迫ってくる。 木版画でありながら花びらや葉を彩る一筆ひとふでが際立つ刷りは、刷り職人の藝の超絶を示し、版画連作の頂点を目の前にしているのだという感動におそわれた。 * 1月10日には館内で美術史家の土田眞紀さんの講演もあった。 杉浦非水の同時代を歩んだデザイナーとして浅井 忠、津田青楓、富本憲吉、藤井達吉の作品をスライドで見せながら、デザインに自然写生を取り入れることが斬新とされた時代について解説してくれた。 講演を聴きながら想ったこと。 江戸時代あるいはそれ以前に、掛け軸の絵を描くという行為と、染物の意匠を創る行為とはどのような関係にあったのか。 現代においてそれはどうなのか。 今日において絵画と意匠は別物でありつづけるのか、両者は藝術家の内面において個々に融合をとげつつあるものなのか。 明治・大正の意匠の先覚者たちは、欧州のデザインを自分のものにしてゆく過程で、浮世絵の伝統にどういうかたちで接点を見出したか。 じつに豊穣な時間を過ごさせていただいた。 杉浦非水展は1月17日まで。行ってよかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jan 11, 2010 06:33:58 PM
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