テーマ:中国&台湾(3304)
カテゴリ:ぼくの疑問符
明治7年の、江藤新平らによる士族武装蜂起のことは、「佐賀の乱」 と習ってきた。
東京政府側から見れば 「乱」 であるから。 ところが、佐賀側から見れば 「乱」 にはあらず。 「佐賀の役(えき)」 というそうだ。 “佐賀の乱” を Google 検索したら 18,700件がヒットした。 “佐賀の役” を検索したら、当然、ぐっと少ない件数にちがいない ……と、思うでしょ。 ところが、 “佐賀の役” を Google 検索したところ、117,000件! 「乱」 より 「役(えき)」 のほうが1桁多いのです。 これは、信じられないような、ビックリです。 ちなみに Wikipedia で見出し語になっているのは、「佐賀の乱」 のほう。 「佐賀の役」 は見出し語になっていません。 どうしてなんだろう。 “佐賀の役” でヒットしたサイトを見ていて、わかりました。 わざわざネット上に明治7年の佐賀での出来事について書く所以(ゆえん)は、佐賀の目線で佐賀の歴史を紹介したいから。 佐賀のことを書く書き手は佐賀のひとが多く、しぜん、ネット上では 「佐賀の役」 が 「佐賀の乱」 を凌駕することになったのでしょう。 こんなことをわざわざ調べたのも、3月29日の 『北國新聞』 コラム 「時鐘」 に触発されたから。 こんなことが書かれていたのですよ。 ≪以前、佐賀県に行った時に感心したことがある。 日本史で習う 「佐賀の乱」 の表記が 「佐賀の役」 となっていたのである。 明治初期に不平士族が日本各地で反乱を起した。 佐賀の乱の他にも、秋月の乱、萩の乱などがあった。 だが 「乱」 とは中央から見た表現である。地元で 「乱」 と呼ぶのは抵抗がある。 そこで 「佐賀の役」 となっている。役とは戦争のことである。 歴史的な出来事の呼び方も土地で変わる。 日韓歴史共同研究の報告が出た。 中に秀吉の 「文禄・慶長の役」 に関する見方があった。 韓国側は 「役」 の表記を侵略者の見解に同感するものと指摘。 日本側は、双方の立場を脱却した歴史的視点から見ようとの姿勢だった。 4百年以上も前のことでも解釈は異なる。 その後の両国の歴史との関連で見ればやむを得ない。 日本国内でさえ 「乱」 と 「役」 の使い分けに敏感になるのである。 日本と韓国で 「役」 の解釈に違いがでても不思議ではない。 歴史の解釈を一つにするなどということは不可能である。 違いを認めながらも、違いを新たな争いのタネにするのではなく対話の出発点にすればいい。 ≫ 「日韓歴史共同研究」 の結果が発表されても韓国国内に火がつかず、いつもの 「日本の学者がまた妄言」 の大騒動へとプレイアップされなかった。 本気で学術論争をとことんやると、竹島の帰属問題に正面から向き合わねばならなくなり、それをやったら韓国が負けるからだ。 日中の歴史共同研究も、プシュッと消えた。 南京事件をとことん議論したら、30万人虐殺説のウソが白日のもとにさらされるし、人民共和国成立後の現代史は共産党にとってタブーに満ちていて、さわれないからだ。 正直者の勝ち、とでも言おうか、歴史論争戦で日本は中国・韓国に静かに勝ちを収めたと言えるのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Apr 5, 2010 09:15:50 PM
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