韓国語 (朝鮮語) ができたのが幸いし、ヒップホップダンスの公演のために来日した26歳の韓国人が成田空港で引き起こすであろう混乱を未然に防げた。日本嫌いをひとり減らせたかな。
4月12日の朝、京成スカイライナー車中。
日暮里から船橋に向かうところで検札があった。
5列ほど前に座っていた若い人と検札係の会話が通じていない。
検札係は英文を書き並べたシートを出し、指差し会話を試みようとしていたが、見るからに要領を得ぬようすだ。
見かねてしゃしゃり出て英語で話しかけたら、顔が 「ワカリマセン」と訴えている。
中国語で話しても、きょとんとしている。
韓国語に切り替えたところ、相手もようやく 「切符はちゃんと買ったんですが…」 と答えた。
英語も日本語もできない韓国人だった。
予約特急券なしで、成田ゆきの乗車券だけ買ってスカイライナーに乗っていたことが分かり、追加で特急券を買うよう説明した。
これで、済んだと、おもった。ぼくは席に戻った。
はたと気がつき、検札係に声をかけた。
「空港行きの切符は乗車券だけで1,000円するのに、あの韓国人が最初に持っていた切符は750円でしたね」
「そう、成田駅までしか乗車券を買っていないんですよ。この車内では乗り越し料金の切符が発行できないので、成田空港に着いたところで精算が必要です。検札機が切符をはじきますから」
「え?!」
あの韓国人はパニック状態になるだろう。
検札係に追加料金もちゃんと納めたのに、なぜはじかれるんだ? なんでさらに追加を払うんだ?
「これは説明しておいたほうがいいですね」
「おねがいできますか」
韓国人青年のところへ戻って聞くと、全日空便に乗るという。成田空港駅だ。
ぼくは日本航空だから駅がちがう。成田空港駅で助力するわけにはいかない。
駅に到着後、改札口でなぜ追加の250円を支払わなければならないか、懸命に説明した。
最近カシオの韓国語対応の電子辞書を買い、まいにち遊んでサビ落とししていたのが役立ったが、 “票(ピョ)” というべき 「切符」 のことを “券(クォン)” と言ってみたりと、机上勉強のわが韓国語は前途遼遠なり。
*
船橋駅に着いた。
韓国人青年が坐っていたところに別の客が来て、座席予約のない青年は浪人となってぼくの隣に坐った。
雑談したら、「自分はテンソーだ」 という。
「は?」
よくよく聞いたら、「ダンサー」 だった。
韓国語では 「テンソー」 という発音になる。音声体系が日本語と異なるので、外来語の入れ方も日本語とはちがうことがある。
「ヒプハプデンソーなんです」
ああ、ヒップホップダンサーだ。
青年も
「韓国語では、ヒプハプ なのに、日本語は ヒッ・プ・ホッ・プ というので、すごく戸惑いましたよ」
渋谷のライブハウスでダンス公演をしに来た。
去年まではグループ来日だったが、今回はひとりで来たのでことばに苦労した。さもありなん。
渋谷も池袋も道が碁盤目になっていないので、迷っては道をひとにきいたが、その説明がまた分からなくて困ったという。
たしかに渋谷や池袋あたりは、道が駅から放射線状に伸びているから方向感覚を失う。
おやじさんは学校の校長先生。
「じゃあ、ヒプハプデンソーになるときは反対されたでしょ」
「ダンスなんかやめろと連日しかられ、棒でなぐられ、カネは一切出してやらんと言われて。
カネがないから毎日、即席ラーメンばかり食べているうち、胃腸がおかしくなるし、それでもカネが必要だからときどき マンノドン もして、からだはボロボロでした」
“マンノドン” が分からなかったので、電子辞書を取り出して青年に渡した。
和訳を見ると 「雑役、荒仕事、肉体労働」 とあった。
「でも、こうして海外公演までするようになって、ご両親も理解してくれるようになったでしょう」
青年はうれしそうに答えた。
「いまは稼いだカネを親にもあげていて、親も喜んでます。
自分で踊るだけじゃなくて、3年前から ヒプハプデンス のインストラクターもしてるんですよ」
年齢を聞くと
「28歳です。でも、それは韓国式の数えの年齢で、日本式の満年齢では26歳ですね」
19歳のとき勘当(かんどう)した息子が、23歳にしてダンスインストラクターとして人を教える立場になり、海外公演までするようになったのだから、親御(おやご)さんも感慨無量だろう。
苦労しつつ人生を切り開いた青年の骨っぽさも見上げたものだ。
空港第2ビル駅に着いたので、
“クロム アンニョンヒ カセヨ” (それでは、さようなら)
と言って席を立ったら、青年はこれだけは流暢な日本語で
「ドーモ、アリガトーゴザイマシタ」
と答えて頭を下げた。
プラットホームを歩きながら、名刺交換をすればよかったと悔やむ。
もし相手が演劇関係者や画家だったら名刺交換したはずだが、ヒップホップでは接点がないなぁと一瞬おもったのが失敗。
いつまでも記憶にのこる ヒプハプデンソー だ。広い世界で、ご活躍を!