テーマ:今日のこと★☆(105892)
カテゴリ:珂音の日常・非日常
東北大地震の起こった11日、渋谷bunkamuraでフェルメールの《地理学者》を観て、そのまま真っ直ぐ帰れば良かったのに(まだ2時だしぃ)と思ってブックオフで立ち読みなんぞをしてた私がバカだった。こーゆーのを後悔先に立たずってゆーんだろう。
ん?と思ったのは床が振動してる気がした時。大型トラックが建物の傍を走り抜けた時の様な揺れがかなり続いた。が、狭い道に面してるので大型の車が入ってくるはずも無くしばらくなんだろうと訝ってただけで。 そのうち建物が横揺れを始めた。それでもゆっくりした揺れで誰もあわてたそぶりは見せず立ち読みを続けてる。私はやばくないか?と思い本棚の前から離れ階段近くに移動した。そこでスタッフルームから顔を出してきた店員に 「大きそうですよ、避難誘導した方が良いんじゃないですか?」と声をかけ1階まで降りていった。 大きな横揺れがいつまでも続いている。軒下から出ないで揺れが収まるのを待っていたが、かなり長く感じた。あの時、体感で震度5はあるかもと思ったが激しい縦揺れを感じなかったので(遠いのか?)と思い(それでこんなに揺れたなら震源地に近い所はどんなだったんだ?)と思い。 ここから長い1日が始まった。 電車はJRも地下鉄も止まってるだろうから復旧を待つ間に遅めの昼食をと思って地下街のカフェに入った。そこでお店が臨時の休業に入るまでおよそ2時間休憩。地下街を封鎖する事が決ったらしくお店を出されそこから本格的な帰宅難民となる。 携帯を忘れて出かけてしまったので公衆電話を探し(これがホントに少なくなってる)列に並んで待つこと30分。漸く自宅と連絡が取れ、家族は無事だと知る。夫は徒歩で帰宅する事にしたらしいが私は電車の復旧を待つと伝えた。 とは言うものの早く帰れればそれに越したことはないのでバスを乗り継いで・・・と思いバス停まで行ったがどこまで続いてるのか分からないほどの長い行列が出来ててバスで帰る線が消えた。 バスが消えて本気でここで夜明かしを覚悟し、まずは食料と水の確保。周辺の店舗のほとんどが営業してるので最悪で翌日昼頃までを想定してパンと水を購入。薬局でカイロとマスク鼻炎の薬も購入。 緊急避難場所のアナウンスがあり青学まで行ったが既に満杯で入れず別の避難場所紹介される。が、そこに向かう途中で道に迷い(誰かが案内してくれるわけでも地図をくれるわけでもないんだよ)迷ったまま歩き回るよりは渋谷に戻ろうと決めた。 途中で公衆電話に並んで自宅に連絡。そこで立ち話したサラリーマンさんは急遽自転車を購入。これから板橋までチャリで帰るという。建物も道も壊れてないから出来る事。 放浪した末に舞い戻ってきた渋谷駅前。ずいぶん人の姿は減っていたが、駅前の交番では徒歩で帰る人たちのための説明が続いていたしバスを待つ人の列は長い。 私は地下に降りる階段に座って一夜を過ごすことにした。そこには既に多くの人が座り込んでる。カイロをお尻のポケットに入れてても冷えが這い上がってくるけど風はさえぎられてるし、寒さもひどくはないのでなんとかなりそう。 そこに座って2時間もしないうちに降りていたシャッターが上がり始めた。地下鉄が再開したらしい(再開ってアナウンス、無かったような気がする) 雪崩をうって人々が駅構内に入って行く。私もその中にいて再開した1番電車に乗り込んだ。 朝のラッシュよりもひどい混雑。でも誰も文句なんか言わない。潰され捩られ踏まれながら普段より時間がかかったけどとにかく地元にたどり着いた。 時計を見るとまもなく11日が終わろうとする時間。 教訓 被災(と、敢えて言う)当日は行政はほとんど機能しない。 どう行動するか、何処へ行くかは個人の判断。自分がいる場所に関しての情報は得られない。 土地勘の無い場所で被災した場合、公的な避難場所の位置すら分からない。 道を聞こうと交番に立ち寄ったが、おまわりさんは不在。 分からない事だらけの中で全てを自分で判断しなければならない。 途中で日本語の話せない人と同道した。 神田まで帰らなければいけないと言う事は聞き取れたが道案内できるはずも無く。 外国人や障害者、子連れ等、社会的な弱者の皆さんを多く見かけたが手を差し伸べる余裕が私に無かった。申し訳ないと思うだけ。 自宅に帰り着いてみれば部屋の中は混乱中、それはまた別の機会に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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