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テーマ:戦争反対(1190)
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(以下、以前コメント欄に書いた書き込みを再び書かせていただきます。)
中国脅威論は僕も十分認識していますが、それらの言説の流布が結果的に中国の親日派を孤立させ、また中国対日強行派の発言権に根拠を与え、さらに天安門事件以降沈潜している民主勢力との国境を越えた連携を難しくしてまっています。僕は(両国の大資本家同志が連携する以上に)民間、草の根による国と国を越えた同業者組合結成(経済的裏づけがある方がよい)や、共同研究が不可欠だと考えます。 そしてそれらは現在でも十分試行可能であり、新たな政治的体制を先取りするものだと考えます。今現在、各分野での友好、折衝は続いておりそうした成果を見ていただきたいです。 (文学研究での例:↓) 交流する中国と日本の文学者たち (自分の生まれた国家へ安易に同一化するのではなく、国家に頼らない、それ以外の主体の形成を目指した方が、結果的にその国家を豊かにすると思います。) 現在の中国での環境問題の深刻化等を考えても(これ以上血税を無駄遣いさせないように)軍縮への道を提示する必要があり、それにはまず日本側が代替案(北東アジア非核宣言、アジア平和条約等はピースボートを含む複数のNGOによって青写真が作られつつある)を提示すべきだと考えます。また、その理念的中心が「攻撃性の内面化としての文化」(*)である憲法9条、つまり第二次大戦で世界が多大な犠牲を払って獲得した「超自我」としての憲法9条であり得るのではないか、というのが僕の考えです。 また、「国防」、「沖縄の独立」(これはそもそも「もしも」日本が9条が捨てたらという「if」の話ですが)についてより「現実的」に考えていると称する人々は、自分で武器を取り闘って守ります(*)、と言っているわけではありませんから、僕の定義では、彼らは決して自らを危険に曝さない、プロレタリアート(=他に職がなく軍隊に入った若者たち)を搾取するブルジョア階級ということになります。彼らの主張通り、現在の中国が脅威であり、彼らの主張が現実的であるならば、彼らはそれなりの外交努力をするべきであり、より具体的には日中首脳会談を早急に両国首脳に要求するべきだ、ということになります。そうした努力もせず、代替案(上記の北東アジア非核宣言、アジア平和条約等)も示さないのは、僕に言わせれば、彼らは単なる税金の無駄遣い(軍事費の増大)を助長しているだけ、ということになります。 *注1 「攻撃性の内面化としての文化」の代表例である憲法9条に関してはまた詳しく日記に書かせていただきます。 *注2 今現在も「闘って」いる、辺野古沖で座り込み闘争(非暴力のそれ)を続けているオジィオバァとの連携を今後もこのblogで模索したいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年10月15日 00時21分01秒
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