|
テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:カテゴリ未分類
ガンジーはその後、アメリカ黒人運動の指導者マーティン・ルーサー・キングJrなどにも影響を与えましたが、そこにボイコットなどの経済的視点があったことが重要だということはすでに述べました。
ここではさらにその非暴力のスタイルを受け継いで、「沖縄のガンジー」と呼ばれた人を紹介したいと思います。 辺野古沖での米軍基地移転を目的とするボーリング調査に対する反対運動は、周知のように非暴力的なものですが、そこでは具体的に「やんばるスタイル」(by上山和男さん)と命名されたスタイルで防衛施設長の人達との折衝が行なわれています。 そのスタイルは地面にお互い坐って、話し合うというもので、沖縄のガンジーと呼ばれろ阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが米軍相手に行なってきた折衝のスタイルなのです。 (写真はビデオ「辺野古沖ボーリング調査反対運動の記録」より) 辺野古沖の座り込みの現場では、阿波根さんの写真が掲げられ、その著書が勉強会で使われたりしています。 伊江島(辺野古沖ではなく米軍基地を伊江島に移転する案が浮上しているそうだ)に住む阿波根さんは米軍の兵隊個人に怒りを向けるのではなく、ひとり一人に(無知な米兵にも解るように)温かく諭すように話し掛けたといいます。そうした誇り高いスタイルは本当の「敵」を見失わないという意味で、とても重要なものだと思います。 ちなみにガンジーの言葉にも「種の中に樹の素(モト)があるのと同じように、目的は手段の中に含まれている」というものがあります。 ブッシュ大統領が、イラクで平和のためと称して戦争を行ないましたが、このガンジーの言葉はぜひ聞かせたい言葉です。 /////////////////// 以下、阿波根さんについての資料です。 沖縄のガンジー 阿波根昌鴻 あはごん・しょうこう(1903年3月3日~2002年3月21日)。伊江島での米軍土地収奪に「乞食行進」で抵抗し沖縄の反戦地主を象徴する存在だった。 1925年移民でキューバ、そしてペルーへ渡る。34年に帰国。45年、東京から呼び寄せた一人息子を沖縄戦で失う。55年武装した米兵が伊江島の土地を取り上げると、島ぐるみ土地闘争の先頭に立った。 84年に反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を建設。自ら収集した戦争資料を展示。のちに平和資料館と宿泊研修施設を運営する財団法人「わびあいの里」を設立し、理事長を務めた。 映画「教えられなかった戦争・沖縄編」-阿波根昌鴻・伊江島のたたかい- 1998年度キネマ旬報文化映画部門の第1位となった映画。非暴力の運動で、伊江島に進駐してきた米軍と闘い続けてきた阿波根昌鴻さんの思想や生きざまに焦点をあてながら、人の心をゆがめている大きな勢力や社会構造を明らかにしていく大作。命を育む大地と命を奪う戦争の残虐さという圧倒的なコントラストの中で、私達がとるべき態度のヒントに満ちています。 「平和憲法を世界中に広め、地球上から武器も戦争もなくしてしまう。 そして、資源や富をすべての人々で平等に分け合い、それぞれの能力に応じて働き、 必要なものを必要なだけ、感謝の気持ちで受け取れるような社会になるまで、 私たちの平和運動は続けるのです。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年10月21日 01時14分28秒
|
|