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テーマ:戦争反対(1190)
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中心と周縁というと70年代に山口昌男が提唱して一世を風靡したタームとして思い出される。またラテンアメリカに関する従属論争も想起させるが、ウォーラーステインなどはそうした単純化を嫌って、間にワンクッションを入れて三層構造を提唱した。
しかし、中心と周縁というこの構図は単純であるが故に馬鹿に出来ない。なぜなら今も現実の事象に多々見られるからだ。 例えば、これは現実の事象ではなく映画における事例になってしまうが、『地獄の黙示録』や『イワン雷帝』第二部がこの構図を最大限利用して権力の問題を解き明かしていた。 僕がここでこの構図を問題にしたいのは、例えば組織の中に外側から入ろうとする人間が、求心力を求めて中心に無理矢理入り込もうとするときの心理的コンプレックスと社会全体に与えるデメリットを指摘したいからだ。 1936年に起こった226事件は、天皇の支持を期待して、東北地方出身の兵士、将校たちなどが反乱を起こしたものだが、これは結果的には社会全体の官僚化、反動化に寄与しただけだった。『イワン雷帝』の例でも皇帝の暗殺未遂は権力を決定的にしただけだったし、『地獄の黙示録』では暗殺者はあやうく独裁者に(ミイラ取りがミイラに)なりかけた。 僕は実際に社会運動に参加している際、(226とまでは行かないが)「事件」を起こして組織の注目をあつめ、中心に入り込もうとする若者の姿を何度も眼にした。 思うに、日本でも外国でも右翼的な発言を繰り返す人達は、権力の周辺部にいて、その疎外感を埋めるために愛国的な発言をする場合が多いように思われる。権力者側は都合のいい時だけそうした発言を利用するし、都合が悪くなれば(226事件の時のように)切り捨てるだけだ。 彼らの愛国的発言がこうした周辺と中心の構図にそのまま当てはまってしまうのは、歴史が進歩していないことを指し示すものだが、近代という時代、生存競争をする上で強固な中心が必要とされる時代の残余とも言えるだろう。 もちろんこれは右翼の活動だけにではなく、左翼運動にも見られるし、イスラム原理主義にも見られる現象である・・・。例えば、求心力を求めてアメリカの権力者がイラクで戦争をはじめる。そして、求心力を求めてテロリストが外国からイラクへ入り込み、これもまた求心力を求めて外国からイラクへ入った旅行者をターゲットにして人質にするといったように・・・。 この問題の解決策としては、中心が沢山あるようなアナーキーなアソシエーションに満ちた世界をつくるということが挙げられるが(世界的にはアラブは一つの極としてEUなどのように団結するべきだろうし、日本国内では東北、中部、といった道州制規模で災害に対応するセンターがあるべきだが、それらはさらに合併されていない小さな複数の中心から成り立っている必要がある)、これは循環型産業の育成、教育を含めて地道な作業になるだろう。 ただし、先に言及したような過去の映画作品(芸術作品)にこの問題が明確化されているということは、必ずしも理論的ではないかも知れないが、美学的な突破口があるということでもあり、それが現在における唯一の救いだろう(芸術作品は一般の人達の理解力が向上するのを待っていてくれる)。このことは同時に、すべての人間がイマジネーションを働かせて、芸術家(ヨゼフ・ボイスの言葉で言えば「社会彫刻家」)として闘っていく必要を示唆しているのかも知れない。 最近は一般化したblogやソーシャルネットワーキングサイトなどもそうした中心の沢山あるような社会をつくるツールとしてあるのだが、やはりネット社会の中でも求心力を求めて外側から「男の子たち」が空虚な中心を目指して突入し、周囲に迷惑をかけるケースが目立つ。これはネットというグレートマザーによって現実から遮断されたうえでの一種の男性原理の発露でもあるが、これはネット特有の問題と言うよりは今ある社会の縮図であり、そうした事実を意識化して行く作業が必要となるだろう。 注記: 山口昌男に関しては『わかりたいあなたのための現代思想・入門』あたりがお薦めです。 ウォーラーステインや従属理論に関しては柄谷行人『トランスクリティーク』に要約、解説がある。 226事件に関しては『叛乱』(佐分利信他監督)がわかりやすい。 ヨゼフ・ボイスの社会彫刻に関してはミヒャエル・エンデらとの討議を収めた『芸術と政治をめぐる対話』(岩波書店)がお薦めです。 ネット社会ではないが、マスメディアに関しては、第4の権力ではなく、第4の戦場であるという意見が最近浮上してきている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年10月31日 00時07分19秒
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