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テーマ:京都。(6119)
カテゴリ:歴史
さて古高俊太郎邸跡から歩いて2~3分のところに、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地があります。河原町通沿いで、現在は旅行代理店の京阪交通社の支店となっています。
大政奉還の1ヵ月後の1867年11月、両名は何者かに襲われ、坂本龍馬はその日のうちに絶命、中岡慎太郎も2日後に命を落としています。幕府見廻組の犯行と一般的にはいわれていますが、武力討幕を目指していた薩摩藩の陰謀との説も一部にあります。 裏通りの木屋町通へ出て北へ向かうと、三条通と交差したところに、佐久間象山・大村益次郎遭難の碑があります。実際の遭難地はもう少し北のようです。余談ですが、佐久間象山の息子が新撰組に入隊していたというのは、殆ど知られていません。 更に木屋町通を北へ進むと、加賀藩邸跡があります。加賀藩は外様大名最大の藩でしたが、幕末には目立った活躍はしていません。鳥羽伏見の戦いが勃発した当初は旧幕府側についていました。その後新政府側に転じますが、新政府軍の戦費の調達を要求されることになります。 河原町通の京都市役所前からバスで府立医大病院前に向かい、そこから徒歩で京都御苑へ向かいました。途中ちょっと脇道にそれたら、御所の東側に紫式部の邸宅跡がありました。今は寺になっています。京都は本当に歴史の宝庫です。 京都御苑に入りましたが、かなり大きいですね。御所の周りを歩いて1周しましたが、30分以上、下手をすると1時間近くかかったのではと思います。今は木々が茂り公園のようになっていますが、その昔は公家の屋敷が立ち並んでいたところです。学習院跡や皇女和宮生誕の地がありました。 御所の西側へ行くと、蛤御門があります。ここは1865年の禁門の変の主戦場になったところで、幕府方と長州方が激突し、長州方が敗退しています。 京都御苑を離れる頃には、段々外も薄暗くなってきましたが、まだもう1ヶ所行くべきところが残っていたので、先を急ぎました。歩いて京都府庁へ向かいました。 ここは京都守護職の屋敷があったところです。敷地内に石碑があるとのことでしたので、正門の守衛さんに聞いたところ、すぐ教えてくれました。私以外にも見に来るマニアがきっといるのでしょう。門の脇にありました。 これでようやく今回の旅で予定していたところは全部見終わった形です。バスを2本乗り継いでユースホステルに戻った頃にはもうすっかり夜になっていました。預かってもらっていた荷物を受け取って、バスで京都駅に向かいました。1回200円のバスに8回も乗りましたので、1日乗車券500円の元は十分とりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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