テーマ:癌(3550)
カテゴリ:つぶやき
7年前に肺がん、5年前に食道がんを患った私の父は、
8月13日に天に召されました。 と書くとキリスト教みたいですが、題名は仏教ですね。 肺炎、肺臓炎を起こし、病院に緊急入院してから約50日で父は力尽きました。 何本もの点滴につながれ、呼吸器がついていたので口では会話もできませんでした。 筆談も初めの頃だけで、徐々にその力もなくなっていきました。 治療の副作用か、 血糖値があがったり下がったりで、あがれば下げて、下がってはあげての繰り返し。 体中がお疲れなのか、あちこちむくみまくりで。 利尿剤もしょっちゅうでした。 あちらこちらが弱っているため、 そこまで積極的に治療をしていくことに疑問はありましたが、 『最善の治療』はそうであると理解することにしました。 亡くなる直前は、左腕から手にかけてむくみで爆発寸前でした。 看護婦さんは「破裂することもまれにあります。」と言っていました。 包帯でぐるぐる巻きになった父の腕を見て、そこまで頑張る必要があるのかとさえ思いました。 尿が出なくなっていたので、私たち家族は死期を感じていました。 それでも栄養剤の点滴を受け、一生懸命生きていた父でした。 呼吸器をはずせばいつでも死んでしまう状態でした。 (これは呼吸器をつけてからずっとそうだったかもしれません。) 亡くなる前の日、ずいぶん呼吸が荒く感じました。 目も、不自然に開きっぱなしでした。 母が目を閉じようとしても、開いてしまう感じでした。 尿は完全に出なくなっていました。 その次の日の朝6時ごろに電話があり、急いで病院へ来るように言われました。 来るべきときが来たのだと感じました。 病室へ行くといつものように父はベッドに寝ていましたが、 一目見てそれはもう亡くなっているということを感じることができるような状態でした。 でも、人工呼吸器はついたまま。 自発呼吸のサインはないもののゆっくりと胸は動いています。 点滴もそのまま。血圧を上げる薬がついています。 なくなったと判断したときに、家族が来るまでつけていてくれるものです。 触れるとまだ温かいのに、死んでしまったというのか。 数分して先生がきて、瞳孔を確かめた後 「脈は触れていないし、反応もないので。ご臨終です。」 とだけ告げ、部屋を出て行きました。 続けて看護婦さんが「処置をしますので、デイルームでお待ち下さい。」と。 人工呼吸器の音だけが静かに響いていました。 死んだかどうかもはっきりわからずのまま、外へ出ました。 看病していた期間が毎日危篤みたいなものであったため、 死を迎える瞬間というのは意外にあっけないと感じるものでした。 私の中に、 「やっと苦しまなくてすむね、よかったね。」 という感情が出てきて、それが不謹慎なのかなんなのか、わからず今でも過ごしています。 父は私たち残された家族に、考える時間と死を迎え入れる準備期間をくれました。 急になくなっていたら、母のパニック状態を子どもたち(私たち兄弟)で処理することができなかったかもしれません。 感謝しています。父の苦しみと引き換えでしたから。 亡くなったあとも、亡くなる前も、色々な看護士さんから 「お父さんは、頑張っているから」 「お父さんは、頑張ったから」 と言われました。 父は思ったより長い間生きたということを、その言葉から感じました。 死因は、「心肺不全」ですが、 死因の原因をたどるとやはり癌ですよね。 死亡診断書を見て、父の小さな歴史を感じました。 「どうしたらよかったのか、これでよかったのか。」 母が私に言いますが、私は「これでよかったんだよ」ということしかできません。 父が入院していた50日ですが、 私も弟も自分で作った家族をとりあえずおいておいて、 元の家族(父、母、私、弟)で過ごす時間を大切にしました。 色々話もしましたし、けんかもしました。 (主に母と弟だけど。) 私は、父のために病院へ行こうと思える自分を育ててくれた父に感謝しています。 嫌だな、面倒くさいなと思わない自分は、 父が作ってくれたと思っています。 私もそんな家族が作れるでしょうか。 そんなふうに思ってくれる子どもに育てられるでしょうか。 父は私に色々な事を教えてくれました。 今も色々考えさせてくれています。 月末に四十九日の法要があります。 亡くなったあと、その人は49日かけて仏様の下へ行くとお坊さんから聞きました。 お供えのご飯を持って。 苦しみから解放されて、まじめな父は一生懸命歩いているでしょう。 皆様からの温かいコメント、ありがとうございました。 まだまだこれからの私ですが、頑張ります。 やっと自分の中で落ち着きましたのでつぶやくことができました。 長々と読んでいただき、ありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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