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カテゴリ:見たい!行きたい!跡地めぐり
上野の山文化ゾーンフェスティバル。
以前から気になっていた「徳川歴代将軍霊廟と葵の間 特別公開」 運よく抽選に当たり、これまた運よく久しぶりの晴天。 ヨカッタ。 お天気だとそれだけで安心する。 以前来たときは…2008年 それ以来だな。 残念ながら御霊廟と葵の間は撮影禁止。 本当に残念だ… 今回公開していただいた墓所は第三霊園。 五代綱吉公の墓所。 ここには八代吉宗公、十三代家定公ご夫妻、家基公、家達公とその後の御当主が眠る。 広報担当のお坊様(?)の説明つき、主催者の監視付き(笑)で粛々と廻る。 天台宗天海僧正の考えで霊廟様式が作られており、それによると宝塔はお墓というよりは、宝党内に安置されているご本尊の足元で安らかな眠りに就く。と言う。 ナルホド宝塔には仏様が安置され、宝塔に一番近い門には亀甲紋や松竹梅などオメデタイ模様が。 さらには現在失われたとはいえそれぞれに5人のカミサマたちが描かれていて、墓所内は別世界、完全に悪いものから守られた極楽浄土というワケ。 当時は、下々はもちろん将軍でさえココまでは来られなかったところまで入れていただいて、ありがたいことです。 この綱吉公が才を認めてくれたことを切欠についには将軍となり、それを生涯忘れずに感謝したという吉宗公が遺言で合祀され、以後単独の墓所は亡くなったという。 さらには唐銅で作られていた宝塔を石製に戻し、質素にしたのもこの方。 質素倹約。が身上だものね。 今回ひそかにお参りしたかったのが「大納言家基公」 聡明で次期将軍が決まっていたにもかかわらず、鷹狩りの帰り休憩に立ち寄った東海寺で突然に発症し、わずか3日後に死去。毒殺説もあった方。享年18歳。 将軍墓に眠るマボロシの将軍。 説明とか何にも無かったので走ってこっそりお参り。 そして大人気、11代家定公&篤姫墓所。 ここはご夫婦ほぼ同じ大きさ同じ様式で並んで建てられている。 あの、戊辰戦争の折、徳川家の存続に奔走し、明治の世も家達公の養育をし、まさに徳川家を支え続けた女性にふさわしいと言ってしまえばそれまでだし、墓所の建設は家達公の意向だろうから、自分の母のような人の墓所だから特別だろうとは思うけど、あの明治の世で、将軍並の宝塔を建てるのは大変だったろうなぁ。 だって肝心の家達公の墓所は一転、普通の墓所風。 墓石に戒名が書いてあるイマドキの墓所。規模もチガウ。 天障院の亡くなったのが 1883年(明治16)11月20日 家達公は1940年(昭和15)6月5日。 時代が違うと言ってしまえばそれまでだけど…。 その後、大慈院の葵の間見学。 部屋に入ると目に飛び込んでくる双葉葵の壁紙。 でもこれは当時は無かったらしい… そもそも、移築されたものだしね。 でも天保時代に書かれた寛永寺の寺域絵図は興味深かったぁ 天海僧正がいた当時からさらに広大になった寺域。 京都になぞらえて作った江戸の繁栄をどんな想いで見てたんだろうね。 このあたりには彰義隊の幽霊が出ると言うウワサがあったそうだ。 当時はとても怖かったと語るトモダチも現在、彰義隊の幽霊にあったら矢継ぎ早に質問攻めにするだろうナァ なんて話しながらついでに慶喜公の墓所へ足を伸ばす。 ヤバイ、そろそろ日が暮れる。 夜の墓所は怖くないが、デジれなくなるじゃないか 慶喜公墓所 驚いた。奥様と並んで葬られているよ。 阿部正弘墓所 澁澤栄一墓所 こんなところでそろそろ日暮れ。 夕暮れに墓所をうろうろしてると怪しまれるので、そろそろ撤退。 お。スカイツリーだ。 やっぱり史跡めぐりはいいなぁ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年11月16日 23時10分43秒
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