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カテゴリ:見たい!行きたい!跡地めぐり
日野
相変わらずの混みようです。 なんでも昨今ゲームの影響らしく兼定人気がものすごいらしい。 ま、なんで興味を持っていただけるのは良い事だ。という事で。 和泉守兼定。 二尺三寸一分 刀の味方なんてわからないし、説明を受けても「美しい」としか思えません。 この刀を作った兼定さんは当時会津藩のお抱え刀工。 その縁で土方さんにも刀を作ってくれたって訳。 その割には新選組の隊士で兼定を使っている人はいなかったよねぇ? 鞘は朱塗りと思っていたが朱に近い茶色の※乾漆粉(カツシツフン)を撒いた※石目塗り。 牡丹と鳳凰が黒粉撒と銀蒔絵の二通りで描かれている。 目貫は枝山椒。 鍔のデザインは七夕図。 七夕に梶の葉に降りた玉露で墨をすり五色の短冊に書いた願い事を笹に吊るして祈ると願いが叶うという。 ※乾漆粉…漆をガラス板に薄く塗り、乾いたのち、はがして粉末にしたもの。蒔絵(まきえ)・漆塗りなどの材料に用いる。 ※石目塗…漆工で,漆の表面に炭粉や乾漆粉などを蒔き,石の肌目のような凸凹をもたせる技法。 誰のアイデアでこういう造りにしたのかは知らないけれど、 ものすごく現実的で冷静な土方さんが、これを愛用して実践でバッサバッサと使っていたと思うとなんとも。 いままで沢山いろんな刀を見たけれど、こんなに美しい鞘に入ってるのは見たことないよ。 もちろん豪華絢爛な鞘もたくさん見たけど、ひとつひとつにいろんな 想いが篭ってるような そんな刀はないよねぇ。 そしてここに来るとやっぱり泣きそうになる「安富才助さんのお手紙」 隊長の死を「誠に持って残念至極に存じ奉り候」と嘆き、自分は無事で申し訳ないと言う、あの手紙。 大混乱の中で急いで書いたであろう乱筆乱文のあの文字が切ないのよ。 数々の想いのこもった品々を本当はゆっくり眺めたいが、この混雑ではね。 いつもシーズン外して訪れようと思うのだが、今年こそ少しゆっくり幕末に戻りたい。 あまり知られてないけれど加藤福太郎さんの手紙。 土方さんの幼馴染だった平忠次郎さんが当時室蘭警察に勤めていた加藤さんに土方さんの埋葬地を探してくれとお願いしたのだ。 詳しい年はわからないけど多分明 治15年以降。 手紙の日付は5月15日。 調査したのは5月13日。 桜が咲き始めたよって言う出だしに北海道の寒さを思い出す。 当時存命だった柳川熊吉さんにもお話を聞いているから信憑性は高いと思うのよ。 戦死者名簿の「第一の初筆に顕し居り」と言う記述に土方さんは大切に思われてたんだなぁと感動。 それによると土方さんのご遺体をなんとか探し出して火葬にして碧血碑に納めたって書いてある。 他にも見てると涙が出そうになって漸く引き上げました。 墓所にお参りしたけど、ここでも結構な人がお参りしていて相変わらずのモテぶりですな。 まぁ、マヨネーズを供えるようなヤカラはいなかったので安心しましたが。 思いついて高幡不動にも行きました。 先日日光で鳴き龍を聞いたせいか、お不動様の龍の声が聞きたくなりました。 こちらはいつも人が少なく、心ゆくまで龍を愛でました。 その足でいつものように奥のお位牌にお参りに行く途中。 「楊州周延」の浮世絵の展示が。 なにげなく立ち寄って驚いた。 この「周延」さん、元高田藩士で神木隊として戊辰戦争を戦ったヒト。 しかも歌川国芳に師事した事もあると言う。 知らなかった。 仰天してじっくり眺めてきましたよ。 ふぅ。やっぱりこのあたりはタカラモノがゴロゴロしてるぅ! 水琴窟の水音にココロ癒され帰宅。 いや、暑かった。 なんだかばててしまいました。 ★楊洲 周延(ようしゅう ちかのぶ、天保9年8月8日(1838年9月26日)-大正元年(1912年9月29日) 江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。 歌川国芳、三代歌川豊国及び豊原国周の門人。 橋本作太郎、諱は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す。 越後国高田藩(現新潟県上越市)江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕(なおひろ、家禄5石6斗2人扶持)の長男。 嘉永5年(1852年)15歳で国芳に絵を学んで、一丹斎芳鶴を名乗る(有署名作品は未確認)。 安政2年(1855年)頃から三代目豊国につき、二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して浮世絵師となった。 その後、豊原国周門下に転じて周延と号した。 周延の作画期は文久頃から明治40年(1907年)頃までの約45年に及んだ。周延は3枚続の風俗画を得意とし、美人画 に優れていた。 慶応元年(1865年)、幕府の第二次長州征討に従軍。 慶応3年(1867年)橋本家の家督を相続した。 幕末の動乱期には高田藩江戸詰藩士が結成した神木隊に属し、慶応4年(1868年)5月上野彰義隊に加わる。 8月朝日丸で品川沖を脱走、すぐに長鯨丸に乗り換え、11月北海道の福島に上陸。 陸路で箱館を目指し、翌1月5日亀田村に到着。 榎本武揚麾下の滝川具綏指揮第一大隊四番小隊のもとで官軍と戦ったが、3月の宮古湾海戦において回天丸に乗り込み重傷を負う。 戊辰戦争終結後に降服、未だ傷が癒えていなかったので鳳凰丸で明治2年(1869年)8月に東京へ送られ、高田藩預かりとなった。 故郷の高田で兵部省よりの禁錮50日、高田藩から家禄半知または降格、あるいは隠 居廃人の処分を受けた。 大正元年(1912年)9月29日、胃がんにより死去。 享年75。 墓所は台東区無縁坂の浄土宗講安寺であったが、豊島区雑司が谷の雑司が谷霊園に移された。 法名は覚了院直誉義誓居士。 以上wikiより。 いろいろツッコミどころ満載。 私のツボ刺激しまくりな、お方。 今更ながらだけど。 土方さん家とお不動様は近いよね。 でも日野とは遠いのよ。 当時とは道も違うから余計そう思うんだろうけど、本当は日野に行きたかったの。 いや、行かれないことはないんだけどさ 石田寺~お不動様まで20分くらい。 石田寺~日野まで35分くらい。 …あまり変わらないんだけどなぜか遠くに感じるのよね。 日野はそのうち。 お祭りが終わって から。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年05月04日 12時17分13秒
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