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カテゴリ:姉妹の成長☆
衝撃の始まりだった2012年・・。 ようやく少し落ち着き、日記にしるしておこうと思い立ちました。 元旦。 親戚一同が我が家に集まり、わいわいお話した後、 家族で近所の神社へ初詣。 里帰りの準備を進めて、さあ後は出発するだけ・・・だったはずが、 夜11時に義父に異変! 救急車を呼びました。主人が同乗。 まだ起きていた子供たちは号泣。 病院での診断は「肺炎」でした。今回で4回目になります。 酸素マスクをつけてもらって状態は落ち着き、 もう大丈夫だから、予定通り里帰りするようにと義父に勧められました。 もう日は変わり、1月2日2時。 主人を迎えに病院まで行こうと、身支度を整え玄関へ・・ と、車のキーがありません。 電話すると・・キーは主人のポッケの中! 慌てて持っていってしまったのだとか・・。 スペアキーを探したけれど見つからず、 真夜中(しかもお正月)のため、タクシーもつかまらず、 主人は真夜中のマラソンをするはめに・・。4km 25分☆ 義父は主人を心配して携帯から電話をかけて来てくれるほど 元気だったため、実家へ帰ることに。 AM5時頃到着・・5時半には就寝。 何の音でしょう・・。 アラーム?設定したっけ・・? あ、電話。主人の携帯に着信。 私も主人も寝ぼけて頭が働きません。 AM9時でした。 知らない番号・・・義父の病院からです。 「朝食時誤嚥があり、本人の確認を取り人工呼吸器をつけさせていただきました。 病院へお越し下さい」 私たち、まだまだ頭が働いていません。 「今帰省中ですが、すぐに向かった方がいいですか? 子供たちも連れていった方がいいですか?」 「危篤ではありませんが、重篤です。通常でしたらみなさんでお越しいただく状態です」 すぐに着替え、実家の両親に早口で説明し、降ろした荷物をまた車に乗せて、 病院へ向かいました。 お正月の渋滞で、なかなか車が進まない中、子供たちがお腹空くだろうからと、 母が持たせてくれたカステラ一本を手でちぎりながら(お行儀悪くてすみません・・) みんなの口に運び、いただきました。 途中自宅に寄り、義母を乗せて病院へ。 HCUにいる義父は処置中で、なかなか会えません。 そして、就学前の子供は面会を許されないため、次女と二人で待つことになりました。 人工呼吸器が入っている間、意識があるとものすごく苦しいそうです。 そのため、鎮静剤で眠っている状態でした。 私たちは寝不足もあり、時差ぼけのような状態で、現実のことではないみたいに 感じていました。 次の日もその次の日も、毎日通いましたが、呼びかけても反応もなく、 チューブがいっぱい繋がれた痛々しい状態。 面会時間も午前の30分と午後の30分で時間も決まっているため、 その時間に合わせて動く毎日でした。 5日から会社が始まり、病院にお願いして帰りに状態を見たり、 主人と駅で待ち合わせて、一緒に主治医のお話を聞きにいったりしました。 6日には人工呼吸器はまだしばらく取れないため、気管切開をすることに。 手術には、義父の弟さんと義母が立ち会ってくれました。 10日。鎮静剤が夜のみとなり、やっと意識のある義父の姿を見れました。 気管切開のため声が出ないので、筆談を試みますが、腕の力はすぐには戻りません。 手のひらに書いてもらったり、唇の動きで読み取ろうとしたり・・。 義父が言おうとしていることが分かった時は、すごくうれしかったです。 最初に持ってきてほしいものは、「むしめがね」でした。 12日、意識がしっかりして紙にもしっかり書けるようになってきました。 この頃から義父の欲しいものが増えてきて、短歌や俳句の本やラジオなど、 病院へ少しずつ持って行きました。痰を取ってもらうのがすごく苦しそうです。 13日主治医からの説明。 右肺が全く動いていない状態は以前からで、左肺の影が今回の原因であること、 そして、不整脈もあり、抜管後心臓をしっかり調べるとのことでした。 14日初めて次女が面会を許され、2週間ぶりにじいちゃんと再会。 義父の笑顔が見れました。 16日人工呼吸器が取れ、喉の気管切開部から酸素を送るだけでOKになりました。 とろみ食やリハビリもはじまりました。 19日には、喉のバルブを交換し、ささやくような感じですが、少しお話もできるように なりました。 20日HCUから、一般病棟へ移動できました。 昨日お見舞いに行った際には、ゆっくり歩くこともでき、回復の早さにビックリ・そして安心しています。 3月くらいまでは入院になりそうですが、家族みんなで助け合っていこうねって 話しています。 長い日記を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 22, 2012 04:46:47 PM
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