言葉は言霊
大島修治の哲学会社に押し入った暴漢によるガソリン焼き討ち事件に遭い全身の6割を火傷し、5度の危篤状態と十数回の移植手術を乗り越えて、不屈の精神で再起し、2度目の人生で"良い人間関係をつくることが全ての幸せの源である"と信じ、事件当日を命日、そして新誕生日として使命感に燃えて新しい生き方に挑戦している。 言葉は言霊実は私、実家でもぎたてたばかりの蜜柑を、会社と自宅で、1m間隔で3個並べています。そして3つの蜜柑に葉書大の紙を張っています。そのうちの二枚の紙には次の文字を書いています。一つには有り難う、もう一つには馬鹿やろう。三つ目の蜜柑には白紙を張っています。毎朝それぞれの蜜柑の前で紙に書いてある通りの言葉を、声を出して5回語りかけます。例えば、有り難うと書いた紙を張っている蜜柑には、「有り難う」を5回言うのです。何も書いていない蜜柑には声をかけずに無視します。そうすると早い蜜柑は、約20日で皮が乾燥して固くなり始めます。その後に部分的に腐り始めます。さて皆さん、一番腐り始めるのはどの蜜柑でしょうか? 馬鹿やろうと書かれた蜜柑だと答える人も多いのですが、それは白紙で声をかけて貰えない蜜柑です。そして次に「馬鹿やろう」が腐り始めます。「有り難う」は一番長く元気です。人間もそうです。有り難うって感謝されれば嬉しいのです。喜びを感じます。そして馬鹿やろうといわれれば傷つきます。無視されるともっとたまりません。愛情の反対は憎しみではないのです。無視です。博多ではで無視する事を「しかとする」といいます。何か話し掛けても「しかと」されたら腹が立ちます。自分の存在価値を否定されるほど辛い事はありません。蜜柑も同じでした。この実験は何度もやっています。ご飯をビンに入れてやって見てください。これも同じ結果が出ます。言葉は言霊です。その響きによって体の細胞の遺伝子がそのままスイッチON,OFします。 私は最近「お元気様です」という挨拶を、講演を通して日本全国に広める運動をしています。この挨拶はもともと造語ですから正しい表現ではありませんが、私が思うには、そもそも挨拶は、お互いが元気ですよという存在感を示すために掛け合うものだと考えます。だとすれば、お互いの元気の交換が挨拶の目的ではないでしょうか?ですから「お疲れ様です」という挨拶は、疲れがどっと増すような言霊の響きを感じますので、わが社ではやらないようにしています。「おはよう」「こんにちは」「こんばんわ」など、時の挨拶や「ご苦労様です」は良いと思います。皆様の元気な挨拶が日本を元気にします。まして最近の日本列島は元気が足りません。私は皆さんにいつでもどこでも『お元気様です』という挨拶をご提案します。既に多くの会社で取り入れられて朝礼の挨拶などで実践されています。日本中にいつでも何処でも「御元気様です!」を広めて、ご自分の家庭や会社から、元気一杯にしましょう。そのためには経営者や幹部の皆様から先に、元気な挨拶をする事が大事では無いでしょうか。 NHKラジオ全国放送「こころの時代」で90分間お話させて頂きました。「日本を美しくする会」の鍵山秀三郎先生よりのご縁でした。放送の後にNHK担当ディレクターから大反響だった旨のお知らせを受けました。その後、数日間でNHK「こころの時代」始まって以来最高の数千本の問い合わせが殺到したとのことでした。深夜放送にも拘わらず凄い反響でしたので、早速NHKさんより2日間分の放送をCD化したいとのお申し出を頂戴いたしました。無名の私がNHKさんからCD出版を?えっ、ホント、まさかと思いましたが、お陰さまで今年の3月よりNHKCDサービスより心の時代放送分「大やけどで学んだ人間学」が発売され、好評となっております。私事ですみません。CDの宣伝をしてしまいました。 私は、自分にガソリンをかけて火をつけた犯人との、わずか数十秒の出会い、その出会いが私の行き方を変える切掛けになりました。森信三先生は「人は出会うべき人に必ず出会う。そのときは一瞬にして遅からず早からず、出会える」と述べておられますが、犯人は、私に気付かしてくれました。その出会いがなかったら、献身的な主婦〇〇さんとの出会いもなかったでしょう。怪我をする7年前までは、円(お金)を大切にし、今は人とのご縁を大切にしています。 奇跡的に蘇ったこの命、何のために使うか。私の生涯ビジョンは、「良い人間関係を築きながら、人のお役に立つ人間になること」です。我が社の理念は「余暇活性化産業を通して、お客様の余暇を生かし、より楽しく、より快適な生活を作り出すお手伝いを致します。そのことによって、お客様に喜んでいただき働く人々が幸せとなりうる会社にし、社会に貢献します」です。 京都大学の元総長、故平沢興先生は、「人を教えるという事は人を燃やす事である。燃やす人が芯から燃えていれば、燃やされる人は自然に火が着く。」とおっしゃいました。私は7年前に、暴漢にガソリンを掛けられて全身を燃やされ、そして田舞さんと出会って学びの心に火をつけられ、今、身も心も燃えています。これからも益々元気で人の心を燃やし続けます。それが私のお役立ちです。坂をあがる車坂をあがる車のあとを押す苦しさ、ひくものはなお苦しいだろうが押すのも苦しい。だが手をゆるめられない。 ゆるめたら車に押しつぶされるのだ。もう一息、もう一息。苦しいが、もう一息 兄弟、もう一息だぞ。人道主義文学者の武者小路実篤の詩ですが、何か私の幼年時代を知って勇気づけてくれているようです。まだ幼い頃、ボロ買いをしていた父や母の牽くリヤカーを上り坂で必死に後押しした事を思い出します。 今の時代、お店や会社を引っ張っていく経営者や管理者の苦しさは並大抵ではないでしょう。また、それを押している現場で働く人たちの苦しさも厳しいものがあります。お互いに苦しいのです。それこそだれひとり気を緩めたら店や会社はダメになります。どんなに苦しくても、全員の高い志ともう一息、もう一息の頑張り精神があって発展という坂を登ることができるのです。それに人生は「まさか」と言う坂もいつなに時にやって来るかもしれない。そのような時こそ、志や倫理観が支えになるのです。もう一息、もう一息と、お互いに実践していきましょう。 生きるとは燃えつづけることである!命は死に続け、燃え続けている。人間の命はいつも死に続けている。死に続けながら、燃え続けている。つまり死することも、生きることも、命を燃やすことである。いま命が燃えて、命が死に続けているということは、過去は死に続けており、いま毎日未来に向かっている命は燃え続けているということです。 だから死んだ過去は戻らない、変えられないのである。過去は変えることが出来ないが、今ここに生き続けようとしているこの命の未来は自分で描くことができます。人間において生きるとは、ただ単に生きながらえることではない。人間において生きるとは、天より生かされているこの命、この命を何のために使うかではないでしょうか?生かされているこの命を使うとは、命を燃やすことであり、何かに命を懸けるということです。つまり生きるとは命を懸けることである。自分の命を生かすとは命を使うことであり、燃やす事であり、何かに命を懸けることである。命の最高のよろこびは命を懸けても惜しくないほどの対象に出会うことにあります。つまり命を燃やし尽くせるものに出会うことである。その時こそ、命は最も充実した生きるよろこびを味わい、最も、美しくも、激しく燃え上がるのであります。自分は何のために命をかけられるか?自分は何の為なら死ぬことができるか?