言葉を大切にすることは 人を大切にすることだから
脳性小児麻痺によって、生まれながら四肢と言語が不自由な栗木宏美さん。文字を書く訓練として日記を書き始めたが、いつしかそれは自分の胸のうちを表現する詩へと変わっていった。詩作が自らの年きる証しだったという栗木さんに、障害とともに歩んだ半生と、言葉に込める思いをお話しいただいた。NPO法人 蕗の薹代表 栗木宏美-くりき・ひろみ昭和33年静岡県生まれ。脳性小児麻痺による四肢・言語障害がある。56年同朋大学文学部杜会福祉学科卒業後、翌年結婚。二児の母となる。詩集『お母さんの詩を聞いて』を出版し、高い評価を受ける。現在「明日の風文芸賞 岡崎」代表とあわせて、医療ケアの充実した福祉施設の建設を目指すNPO法人「蕗の薹」代表。著書に『詩集ホイッスル』(蒼岳杜)『キュウリは真っ直ぐじゃないといけないの?』(ヴィレッジブックス)がある。栗木 私は仮死状態で生まれたことが原因と思われますが、脳性小児麻痺になり、物心ついた時から四肢と一言語が不白由で、世間一般に言えば「障害者」です。世の中は「障害がある人、ない人」でものすごく区別しますよね。例えばオリンピックもそうです。--ああ、オリンピックとパラリンピックと分けてやりますね。栗木 しかし、文芸の世界に「障害者枠」はありません。どんな簡単な言葉でも文章でも人を感動させる力がある。そんな思いを文芸賞に込めたつもりです。--栗木さんご自身、詩集を出版されていますが、詩作は幼少の頃に始められたのですか。栗木 鉛筆が持てるようになったあたりから母に毎日日記を書くように言われました。ただ、毎日そんなに書くこともないから(笑)、「お花が咲いたよ」「蝶々が来たよ」と、割と詩的な内容を綴るようになっていきました。おそらく母にしてみれば手の訓練と合わせて、言語に障害があるのなら書いて伝えることだけはしっかりとさせたかったのでしょう。--言葉でも伝えられるよう訓練をされたのですね。栗木 母がいつも言っていたのは「できないことがあるなら、できることを二倍やればいい」と。例えばかけっこが遅いなら勉強は負けるなというんです。また、うちは私だけでなく妹も七歳頃までは原因不明の寝たきりで、その後病名が分かり、良薬によって歩けるようになりましたが、重い障害があります。だからこそ私には強く生きていってほしいという思いが強かったのだと思います。いまになって思えば二人も障害のある子どもを抱え大変だっただろうと思いますが、両親はそんな素振りを見せることもなく、いつも明るく笑顔で、努力家でした。母はよく「心に太陽を 唇に歌を」と言っていましたが、その前向きな姿と言葉が私の心に息づいて、私の支えとなりましたね。自らを痛めつける言葉をもバネにして--ご両親は幼少期から社会に適応するように教育されたのですね。栗木 両親の方針で、学校も養護学校ではなく普通学校に入学しました。男の子たちには「化げ物」とか「宇宙人」と言われていましたが、本当に幼い頃は相手もただ言っているだけで深い意味はなかったように思います。でも、先生はクラスに一人だけ障害のある子がいることに違和感があったようで、三年生の時に養護学校に移るよう強く勧められました。仕方なしに養護学校へ通いましたが、確かに毎日が平和で居心地はよかったんです。でも、泣きたくなるほどつらいこともなければ飛び上がるほど嬉しいこともない。刺激がなかったんですね。結局、五年生になると同時に、以前通っていた普通学校に戻ることにしました。--自ら戻られた。栗木 養護学校の先生たちは、「何もわざわざ大変なところに戻らなくても......」とか「いつでも戻ってきなさい」と心配してくださいましたが、ただ一人、高柳先生という方だけは違いました。「養護学校があると思ってはいけない。頑張れ」と背中を押してくださったのです。--高柳先生は将来を見越して、エールを送ってくださった。栗木 私としては以前の学校に戻るだけだと思っていましたが、それからのいじめは壮絶でした。「おはよう」の挨拶代わりに「バカ」「死ね」「気持ち悪い、こっちに来るな」と言葉で罵られる。私の少し曲がって下がっている肩や、その肩をヒョコヒョコゆすって歩く格好、のどにからみつくようなしゃがれた声、左顔面の緊張などを真似され笑われる。さらには後ろから突き飛ばされる、足を引っ掛けられる、つばをかけられる、石を投げられる......。女子からも、私がどんなに一所懸命やっていても、動作が遅いせいか、「掃除、真面目にやりなさいよ」と言われる。いじめても私がメゲなかったことが逆に癪にさわったのか、ある時、学級会で槍玉にあがったことがあります。あることないことを言われ、最終的には「学校に来ないでほしい」と。--それはショックだったでしょう......。栗木 その日の夕方、担任の先生から母に電話がかかってきて、「クラスのみんなに謝罪のお手紙を書いてもらわないと、もう学校に来ていただけません」と言われました。受話器を置いた母は嗚咽を漏らして泣いていましたね。私も負けず嫌いですから、「私は絶対に謝らない、私は悪くないもん」と抵抗しましたが、父は「人間はたとえ自分が悪くなくても、おかしいなと思っても頭を下げなければならない時がある」と、諭すように言いました。きっと社会に出た時、同じような悔しさを何度も味わうことを父は分かっていたんだと思います。あの時は悔しさに身を切られるような思いでしたが、「自分が立派な人間になることでこの人たちを見返してやろう」と誓い、その思いがバネになったと思います。自分を傷めつける経験や言葉もまた、ある意味で人生の支えになったように思います。そうだ、結婚してしばらくした頃、当時の同級生から電話をもらったこともあるんですよ。お子さんがもうひどいアトピーで、クラスで「お化け」とか言われて、ひどいいじめに遭っているそうなんです。私は旧姓が青島というんですが、「あの時、青ちゃんがいじめに負けなかった姿を思い出して頑張っている」と言っていました。--大人になって理解できることもあると。栗木 私は大学で福祉を専攻しましたが、先生が「どんな理由がなくても、十人に一人は障害のある子が生まれてくるのだから、自分には関係ないと思わないように」とおっしゃっていて、本当にそうだたと思います。またこの世に百%健常者もいなければ百%障害者もいません。誰もが健常の部分と障害の部分とを併せ持っています。だから「健常者」「障害者」と線引きをせず、一人ひとりを社会の構成員として認め合い、受け入れ合うことが大切だと感じますね。神様はそんなに意地悪じゃないよ--その後も大学まで一貫して普通学校に通い続けられましたね。栗木 高校も大学も最初は受験すら断られたところが多いのですが、自ら学生課に受験願いの手紙を出し試験に挑んできました。ところが就職は別でしたね。四大卒の女性が嫌われる時代で、その上障害があるなんていったらゼロに等しかったんです。仲の良い友達は次々と決まっていく。やっぱり私は障害があるから違うんだと自暴自棄になりました。人間として立派に生きたい--詩集を出版されるきっかけとなったことは何ですか。栗木 NHKの厚生事業団が毎年福祉関係の体験論文を募集していまして、応募したらたまたま優秀賞をいただき、『お母さんの詩を聞いて』というドキュメソタリー番組になったんです。番組をご覧になった方々が「詩を読みたい」と番組に問い合わせてくださったそうで、書き溜(た)めていたものが出版の運びとなりました。--詩をつくられるのはどういう時なんですか。栗木 考えてみると、苦しみの絶頂にいる時は書けないかもしれません。出来事や感情を客観的に捉(とら)えられるようになった時、言葉が湧き上がってくるように思います。それから、案外何もない平穏な日々には書けませんでした。もさーっと生きていたら詩は書けないのかもしれない。--栗木さんの活動の原動力は何ですか。栗木 もしも障害がなかったらここまで頑張らなかっただろうなとは思います。「障害があるからこそ、こんなことには負けないぞ」という思いは常にありました。ただ、自分の中でいつも誓ってきたのは「障害者として有名になるのではなく、人間として立派に生きる」ことです。詩人と名乗るのは気恥ずかしいですが、言葉を大切にすることは人を大切にすることだと思っています。だって「障害者」と呼ばれるのと「障害のある人」と呼ばれるのとでは、受ける印象は全然違いますから。--おっしゃるとおりですね。栗木 大人になったり、「詩人」なんて言われたりすると、難しい言葉や熟語を使おうとしがちですが、ほんの数文字あるかどうかで、心を傷つけられることもあれぼ潤されることもある。たった一文字にも人を大切にする思いを込めて詩作に励み、それによって自分の人生も潤していきたいですね。ホイッスル 栗木宏美 それは太平洋に浮かぶ小さな島国の小さな小さな町工場で作られていると言う それは音階も何もなく掌の中に埋もれてしまうだが一度(ひとたび)その音が鳴り響けば黄金の脚に躍動感あふれる肉体に命を注ぐまた一瞬にして息の根を止めてしまうことさえもできる 生まれたがらに健やかな身体を奪い去られた私は内なる秘めた強さが脈々と養われているのかもしれない この無限に広がるスタジアムの中で 私はいつの日か高らかにホイッスルの音(ね)を鳴り響かせよう