自分自身の為に
自分自身の為に 稲盛和夫の哲学より 近年、青少年による犯罪が急増しています。捕えてみると、犯人は普段は礼儀正しい少年であり、家庭環境もそれほど悪くない。場合によっては、とくに経清的には恵まれているケースも多々あります。しかし、かつて日本が貧しいとき、子供たちはみんな自由を抑圧され、押さえつけられていました。そしてそのころは今日のような問題は起きていなかったのです。それは、大人とのふれ合いや子供同士のふれ合いを通して、普段から自分を抑える訓練がなされていたためであろうと思います。いまは家族とも、友だちともふれ合わなくなった。そのため、目分をどうコントロールすればいいのかわからないのだろうと思います。実際、兄弟も少なくなっています。そのため、お父さんがケーキを一つ買ってきたら、一人っ子は全部自分のものになります。ところが、五人兄弟だったら五つに分けることになる。完璧には五等分できませんから、大小ができる。すると、一番下の子は一番小さいケーキ、一番上の子は一番大きいケーキを取る。下の予が欲張って上の子のように大きいケーキが欲しいといったら怒られます。その代わり、大掃除のときはいちばん上の子の仕事が多くなり、いちばん下の子は殆ど何もしなくてよい。兄弟がいれば、そういうふうに我慢したり、ときには助け合ったりして、自分をコントロールしながら生活しなければなりません。つまり、家庭のなか、兄弟関係のなかに規律があり、そこで自然と訓練されていたのです。「すき焼きを食べて競争と遠慮を覚えだ」といった人がいますが、人の輪のなかで生活が営まれることを通して、人間関係の築き方や社会人としてのべ-シックなルールを自然に学んでいたのです。最近の若者は「心が荒れている」とよくいわれ、「心の問題」を指摘する先生方も大勢います。しかし、「心の問題」といいながら、荒れた心をどうするのかと聞くと、(心の大切さを伝える」「カウンセリングする」、あるいは「病んだ心を治療する」というような通り一遍の答えしか返ってきません。つまり、どうすれば心の教育ができるかはわかっていないのです。一方、「発展途上国には十七歳の問題はありません」という人もいます。また、「貧しい家庭から荒れた子供は出ない」ともいわれます。貧乏な生活をしていたら、子供が悪くなってもおかしくないはずですが、かえって豊かな家の子供のほうが悪いことをする。明治、大正、昭和のはじめ、それから戦後しばらくのあいだ、日本が貧しい時代には、子供でも何かしら働かなければ一家が生活できなかった。子供だからみんな遊びたいし、やんちゃもしたい。それでも親に叱られ、手伝えといわれて頑張った。そのことによって、子供は子供なりに自分の欲望を抑えることを覚え-これは「持戒」といってもよいでしょう。-働かなければならなかったがゆえに「精進」の大切さを知り、辛抱すること-これは「忍辱」に通じます-の三つを通して、心を磨いていきました。つまり、働かざるを得ない、また欲望を抑えることを学んだ、さらに辛抱した、そのことが貧しい家庭の子供がかえって大きな成功を収めていくことにつながっていったのです。心がすさんできたというのは、この三つの心をつくる作業をわれわれが見失ってしまっているからです。青少年の問題で最初に考えるべきは、「心というものをつくるために何をなすべきか」であり、基本となるのは「われわれ人問は自己の欲望を抑え、辛抱をし、そして働くということが、心をつくるために必要なことだ」ということを教えることです。それを教えないで、たんに「心がすさんできた。だから十七歳の問題が起きた」という。さらに「十七歳の間題が起きたから、心の問題を考えなければいけない」ともいう。しかし、誰もそのようなことが起こった埋由まで真剣に考えようとしていないのではないでしょうか。青少年の問題ではもう一つ、現在の学校教育の問題があります。それは先にも述べましたが、「自由な個性を育てましょう」という方針です。この方針にしたがって、予供のころから「自主性を尊重しよう」「教え込むのではなく、自発的にやらせましょう」という教育をしています。しかし、それでは人間の心をつくることはできません。お釈迦様は「持戒」-戒律を守れ-ということを言いました。戒律を守り「やってはいけないこと」はやらない。これは当たり前のことです。しかし、「やってはいけないこと」と「やってよいこと」がわかっていないと、「持戒」は実行できません。そして、それは教えなければわからないのです。だから、仏教では「これをやったら死んで地獄へ行きますよ」という方便を、使って人々を教育しました。人々は震えあがって、「これは一生懸命守らなければいけない」と思った。ところが、現在の教育では、何も知らない子供たちに自発性とか自主性というだけで、肝心の「やってよいこと」「悪いこと」、つまり戒律を教えていません。なかには「子供は純真だから、教えなくても善悪はわかる」という人もいます。しかし、私から見れば、子供は決してそうではありません。本能を抑えるものがない、エゴ丸出しの動物のようなものです。太吉の昔のように厳しい自然のなかで生きるのであれば、自然が「やってよいこと」と「やっていけないこと」を生活を通して教えてくれます。また、それが習得できない者は生き延びることができません。しかし、豊かになった現代社会では、それは通じません。だからこそ教育を通じて、(人間としてやって良いことと悪いこと)をキチントと子供のときに教えなければならないのです。