心身統一
心と身体は車の車輪のように、どちらか一方を損じても命全体が完全には働かなくなります。解説・安武貞雄先生命の力と心身統一人間の真正な価値の認識「元来人間は、この世に病むために生まれて来たのでもなければ、また煩悶や苦労をするために生まれてきたのでもない」と天風は断言しています。私たち現代人は特に、複雑で捉えどころのない情報化杜会に翻弄され、悲惨な事件が毎日のように報道される日常の中で生活することを余儀なくされていて、考えれば考えるほど割りきれない疑念ばかりで、徒に迷うばかりだという人も少なくないかもしれません。人間というものは、どんな境涯に到達しても、「人生とは重き荷物を背負って坂道を登るがごとき」というような、生きている間は始終苦労と取り組んでいかなければならないというように、人生を断定するような考え方をもっている人が多いのです。そこでまず真剣に考えたいことは、人間とは果たして何ごともままにならない弱い存在なのだろうかということです。「数多くの人々の中には、幸福に人生を恵まれて活きている人もあるだろうが、しかしそれは極めて少数でしかない。大部分の人間は、やれ病いの、やれ不運のと、一日として心の底からのんびりとすることもできず、本当に面白い楽しい人生などというものは、時には味わうことがあってもそれは瞬間的なもので、せんじつめれば人生というものは結局苦労に充ちたものだ」と思い込んでいる人も、案外多いのではないでしょうか。しかし、そうした考え方や思い方は、それは畢竟、人生に対する観点の置き所ということに大変な間違いがあると言わねばなりません。もっと詳しくいえば、人間というものを、運命や健康に対して力弱い憐れなもののように考えるのは、要するに「人間の真正な価値の認識」という重要なことを欠いているからに他なりません。人間の真正な価値を正当に認識すれば、人間の本当の尊さが解り、その結果人間を考察する観点も自然と正しいものとなり、人生がもっと尊厳あるものと感じられるようになるのです。人間という者を本当に正しく考えようとするには、何をおいても「人間の真正価値の認識」がその先決要件なのです。生命に内在する潜在的な力本当に、現在よりもより良い人生に活きようと願うなら、前述したように、人間を力のない憐れな存在であるというような考え方は、断然自分のなかから切り捨てなければなりません。人間とは、力弱い憐れなものではなく、もっともっと力強い尊厳に充ちた存在なのです。人間はどんな人でも、生まれてきたからには、その生命の中に潜在的な活きる力として、健康も運命も自由に獲得し、開拓し得るという「潜勢力」が与えられています。人間は、そうやたらと病いや不運に悩まされたり虐げられなければならぬものではなく、その一生を通じて、健康はもちろん、運命もまた順調で、天寿を全うするまで幸福に活きられるように本来的には生まれついているはずです。しかしながら、残念なことに多くの人々は、人間に存在するこの厳粛な事実を、正当に認識していません。というのも、生命の奥に内在する微妙にして素晴らしい「潜勢力」なるものの実在を全く意識していないからです。ですから、何をおいても、人間には人生の全てを立派に解決して、その人の力を完全に発揮することができる頼もしい「潜勢力」というものが、自己自身の生命の中に厳として実在しているという自覚意識をもつことが人切です。現在よりもより良い人生に活きようと望むならば、何をおいてもまずこの自覚を自分の心に促がすことが、そもそもの第一歩であり、人生への真剣なアプローチと言えましよう。潜勢力の自覚自分のもつ生命力を価値低く評価している人がいるとすれば、それはおそらく現在の自分の人生に使っている力だけを、自己の生命の力の全部であるかのように決め込んでしまっているからではないでしょうか。人間の日々の生活の範囲というものは、仕事や立場で多少の違いはあっても、そう特別変化に富んだものではありません。毎日概ね変化のない同一の範囲内で生活しているので、従ってその日々の人生に使っている自分の生命の力というものも、毎日その分量に大した変化がないのが通常です。人々がその人生に生きるために使っている力というものは、いずれも実際の生命力の全体量からいうとほんの何パーセントかにすぎないということは、火事場の馬鹿力のように、何か突発的なことで日頃の自分以上の力を出したことがあるなど、多少思い当たるところがあるのではないでしょうか。しかしそういうことを深く考えることもなく、ともすれば毎日の生活のなかで自分の生命の力の全部を根こそぎ使って活きているように思ってしまい、自分はこれほどまでにできる限りの力を用いて努力しているにもかかわらず、一向よい運命もこず、健康も完全にならない、だから自分には結局これ以上の力は無いに違いないと、極めて単純に相対的な現象だけを対象として考えて、自分という人間の力を至極低く評価してしまうことが多いのです。そのため、二度と生まれてくることのできない貴重な人生を、空しく無価値の状態にして、ああもなりたい、こうもしたいと、あくせくしながら一向に思うほどにもなれず、欲望だけに振りまわされて人生を終わるという、せっかく人間として生まれてきた甲斐のない結果になってしまうのです。生まれがいのない人生、それはまた生きがいのない人生ということになります。多くいうまでもなく、人生を活きる以上は、人間として生きがいのある人生に活きなければうそです。先哲ソクラテスの言葉に「汝白身を知れ」という有名を言葉があります。この言葉こそ正に、人生の本質を喝破した一大箴言と言えましょう。「人々よ、人間の本質に目覚めよ!」という深い人生自覚をうながす一言葉は、「人間というものは、多くの人々が思っているよりも遥かに尊いもの、遥かに崇高なものだ」ということを、切々として訴えているのではないでしょうか。不運や不幸と絶えず自分の心を取り組ませて、明け暮れ悲観や煩悶の坩塙の中で、のた打ち回っているような人生に活きることが、およそ人間として正しいことかどうか、ソクラテスは厳かに反省を促がしているのです。それどころか自分の病弱を悲嘆したり運命を煩悶しながら活きるようなことは、人間の本質を冒涜するものでさえあります。やはり人間として生まれてきたからには、たとえ明日病いで倒れようとも、できるだけその本質の尊さに悖らぬよう活きるべきだと考えるところから、心身統一法は始まります。潜勢力の発言私たちはまず、自己の中にある偉大なる活きる力、潜勢力の実在を自覚することを正しく自己の心に促がすことが重要です。なぜならその力を確信することによって、はじめてその力は現実的に発揮されるからです。金庫の中に幾らたくさんお金を持っていても、そのことを知らなければ一生貧乏で終わってしまうようなものです。大部分の人は自分の生命の奥に偉大な潜勢力というものが実在しているということを信念していないため、その力の開発に関する方法を考えようとしないのは当然ですが、中にはこの力の実在を信じていても、それはいわゆる窮すれば通ずるというような何かのときに偶然でてくるもので、自分の意思では発揮できないものと思い込んでいる人がいます。また、人によると、この力は普通の人間を超越して生まれた天才や、特別な才能をもった人間のみが発現できる特殊な力のように思っている人もいます。それからまた、この力は確かに人間の生命の中にあるには違いないが、それは普通の生活を送っていては出せるものではなく、およそ凡人には容易にできない難行苦行を積んで修行をしなければ、自由に発揮できるものではないと考えている人も多いでしょう。しかしこれらの考え方はいずれも間違っているとあえて申し上げます。それは、「人間には偉大な力が誰にでも生まれながらに与えられているのだから、その力を十分発現できればよりも価値ある人生に活きられる」ということを唱える人は多くても、さてそれならどうすればその尊い力を誰でも自由に発現させることができるかということについては、誰も論及していないからです。 中村天風は、「何人にもこの力は実在しているものであるから、ひたむきに、発現に対する正しい方法を実行さえすれば、何人にも現実に発現してくるのがまた自然のことなのである」と言っているのです。心身統一の必要それでは、その人生至上の実際問題である潜勢力の発現を現実化するには、一体どんな手段と方法を実践上の必須条件とするでしょうか。まず何をおいても、先決的に必要とすることは「日常の人生生活の方法を、人間の本来の面目に即応して絶対に純正化すること」と天風は言います。「絶対に純正化された人間生活の様式」とは、「心身の統一された状態の活き方」です。そもそも人間の生命は、精神と肉休とが密接不離の状態にあります。心と身体は車の車輪のように、どちらか一方を損じても命全体が完全には働かなくなります。即ち心身が統一されて営まれる生活法は、人間の生命のありのままの姿である心身一如という厳粛な事実に、正しく順応した活き方だからです。それでは心身の統一された人生生活様式とはどんな状態かというと、精神を「精神生命の法則」に、肉体を「肉体生命の法則」に合わせるということであって、分かりやすくいえば心を心の道に従わせ、身体を身体の道に従わせて活きることです。