心の発達の段階
心の発達の段階 教えて頂いたこと27私達は生命本来の欲求として、素晴らしく生きて行こうと思っています。しかし、生命の意識の段階が、まだ幼いものは物質的な欲求や肉体的な欲求を満たす生き方をしています。 第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求です。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階です。この段階では生存の価値として魂が、この世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てです。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからです。 第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であす。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずです。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階です。しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉の辞世の句に「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」といった。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけです。単なるはかない生き方になるだけです。 我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのです。 第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求です。 ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。とにかく第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものです。このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求です。 第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが限界があります。 確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質現象界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのですが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすいのです。第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態です。 現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。 何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからです。 第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階です。 自己の本質であります生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識できる段階であります。他に与えて通る段階、徳を増やしていく段階です。助け合いの、生命の愛の段階です。 生命とは、もともと物質現象界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在です。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元です。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのであります。この事が自己の観念の拡大発展です。 第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことです。 この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものです。 つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が、直ちに其の人自身の心の成長段階を示していることになります。