生き方
生き方教えて頂いたこと33 悩みというのは自分のことだけを考えますと苦しくなってきます。自分が自分の考えで自分の心の中に入ってしまって、他のことがわからなくなってしまっています。いわゆる自己中心になっています。こうなって来るとノイローゼになってしまいます。その結果自分の存在を失います。諺にもありますように「天は自ら助くるものを助く」です。 要するに、天は自ら他を助けようとするものを助けるのであって、助けてもらいたいものは助からないことになります。こういうふうに考えていきますと、どうしても親の考え方をしなければ、助からないことになっています。子供の考え方の助けてもらいたいというのは、助からないのです。助かっていない境遇の人は、助けてもらいたいと言います。しかし、助けてもらいたいと1回言った人と、何回も助けてもらいたいと言った人では、何回も助けてもらいたいと言った人の方が、より助かっていないことになります。だから、問題があっても、助ける側に立って助けることをしなければ、助からないことになります。要するに、どんな時でも、助け合わなければならないのです。判りやすくいうと、借金をして、助けてくれと言って、お金を借りてどんどん借金をしていく生き方をして行くと、借金した分だけ、ますます助からなくなって行きます。此れに反して、借金があるのに、周りの人たちや、世の中の役に立つことを、少しずつでも行うことが、運命財産であります運命の貯金が増えて、結果的には、借金を返済できる運命・環境が与えられて、助かる運命になっていくことになっております。つまり、相手にプラスをして、助けた分だけ助かることになります。しかし、助けてもらいたいと思い、してもらった分だけ、借金が出来て助からないことになるわけです。実行実現についてこういうことが判ってきますと、次にどうしたらその様に生きていけるかということになります。普通、泳ぐことが出来ない、自動車の運転が出来ない時は、それが出来るように努力しようと致します。生きることも、全く同じことで、役に立つ生き方を努力して身に付けることが大事であります。事実、実行しないとプラスの結果は出ません。例えば、畑に種を蒔くことを知ってはいても、種を蒔かなければ、生えてきません。実際の行いがなければ、その様な結果は出ません。自分の欲求を満たす為の努力はしても、他の為に役に立つ気持ちの努力は致しません。つまり、生きる事に、その様な努力をしようとは致しません。こういうことが大変重要な問題であります。このことが判って実際に実行実現しなければなりません。夫婦の問題でも、結婚前は相手の為に映画に連れて行ってあげようとか、美味しいものを食べさせてあげようとか、似合う洋服を買ってあげようとか、相手にプラスをしようと考えていますが、結婚後は、相手にああしてくれ、こうしてくれと要求ばかりして、してくれないとお互いに不機嫌になり、こういう人だとは思わなかっただとか、要するに、してあげようという親心はなく、してもらいたいという子心になってしまっています。何も夫婦だけに限ったことではなく、親子、兄弟、友人、知人、会社の同僚、会社の上司との関係もみな同じであります。自分が良いと思って結婚した相手なのに、こういうことがわからずに、相手の為に生きるということも気が付かず、しかも親の考え方に成長して行く事が本質であるのに、うまくいかないことを、周りのせいにしたり、人のせいにしたりして自分のせいであるという主体性が見られません。与え合う関係であるはずなのに、奪い合う関係では、絶対にうまくいきません。此れは誰と結婚しても、どこで暮らそうとも、より良く生きてはいけないのであります。ましてや、わけのわからない神仏に願ったとしても、自己中心の我(が)の願いが、思うようになるはずはありません。どうしても西郷翁の謂われた、他の為の生き方をしなければならないのであります。だから「人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」と謂われているのであります。どうしても、助け合う親の考え方をして、成長して行かなければならないのであります相手にプラスの種を蒔かずして、どうしてプラスの収穫をすることが出来るのでしょうか。与えたものがマイナスであったならば、マイナスしか収穫です。 こういう生き方がわからずに、自分中心の生き方をして、内臓を傷め、心を病んでしまっています。漢方薬は東洋医学ですから、背後の東洋思想に踏み込まざる負えません。五行相剋説から木火土金水の考えでも甲乙・丙丁・戊己・庚辛・壬癸の十干にしても、その関係の中で、易をやっている人たちは、例えば火のタイプと水のタイプは相性が悪いと表現しますが、それはネガティブな考え方で、対立にもっていこうとしております。火と水は確かに違うのですが、助け合ってお風呂が出来るのではないでしょうか。違っていることは、素晴らしいことなのに、性格の不一致とは、どういうことでしょうか?自分に合わないとは、合わそうとする親心はないのでしょうか。ここに、大きな問題があるように思われます。違いがあるからこそ素晴らしいのではないでしょうか。しかし、違うからいやだと思う考えをする人が多いです。其のことが、いかにも自分を正当化する考えのようですが、極端にいうと我が間々ではないでしょうか。違うことは、プラスの考え方でマイナスの考え方ではありません。違うから、その面白さがあるのだと思います。違うことに責任を転嫁してはいけないと思います。 とにかく、全てマイナスの思考をしています。「虫が好かん」とか「悲願達成」とか「因果応報」とか全ての表現がおかしいです。「虫が好き」とか「喜願達成」とか「善因善果」の様なプラスの表現がありません。生きる生き方の素晴らしさを感じないで生きているのではないでしょうか。生きていくのは、全て、どんなことにもやって良かったということを味わいたい為にやっているのではないでしょうか。 人生は、ときとして旅行に例えられます。本当に事実そのように思います。人生旅行は楽しく通らなければなりません。それに一日一日其の日の生きる目的は、皆もっています。しかるに、一生の目的は誰も教えてくれません。生きるその意味も、目的もわからずに生きて果たして何か価値があるでしょうか。物事の全ては、意味わかって生きるべきではないでしょうか。意味も目的もなく行動していることがあるでしょうか?もし差をつけたりして、この様な考え方に反する生き方をすれば、文字どおり自然の理に反することになります。生命の使い方には、対立はありません。助け合って通るべきです。