人間の認識力は限りがある
人間の認識力は限りがある熊谷明彦先生 人間は自分の都合の良い物だけしか、認識しないように出来ています。例えば、光が入って来ると、角膜、水晶体、網膜、神経繊維、脳という順番でカットを繰り返して、整理された情報を認識しているのです。それは一斉に様々な情報が入って来ると、人間は狂ってしまうのです。このように制限する事で生命体は守られ生きて行く事が出来るのです。この事は当然、人は全てを認識出来るようになっていない事を意味しています。化学的に進歩した能力とは、人の多くの能力の、内の合理的思考能力が、他の能力の、犠牲の上で飛び出ているだけなのです。本来人の能力は、たんに合理的能力のみではなく、直感、思考、感情、感覚的能力のように多岐にわたります。 余談ですが不思議な事に、この四つは能力のバランスが難しく、思考能力が発達していれば、感情能力が劣っているという事が多いようです。その他にも能力は無意識領域まで及びます。この能力というものは、それぞれ個人差が大きいようです。人は本当の自分自身は意識出来ない所にあるのです。また我々は自分の気が付いている世界が全てではないという事を認識すべきなのです。 現代学問は自分の分かる範囲だけでの事だけなのです。例えば現代のエネルギー論も間違いだらけなのです。エネルギーは消費したらなくなったと思っていますが、実は消費したエネルギーは姿をかえて逆転するのです。この事をエントロピーの増大、マイナスのエネルギーの増大と置き換えるのが正しいカタチなのです。病気やけがの時にエネルギーを使いますが、使い過ぎるとエントロピーが増大して免疫力が無くなって行くのです。 生き方の中でも・他人に対して嫌なことをしたエネルギーは嫌な種として残ります。役立つことをしたエネルギーも役に立つ種として残っていきます。(阪本 記)大極とは何でしょうか? 自然というものは、まだまだ大きい範囲で人間には分からない事だらけなのです。私達が氣つくものはごく僅かです。氣がつかない物の中に大切な大極があります。大極から自然の力が飛び込んできているモノの統体の事です。陰陽論の大極を直接的に認識する事は出来ませんが、大極が陰と陽、精と氣を生じるのです。ですが陰や陽に傾いた時には既に大極とは言いません。大極にあるものを元なる氣=元氣と呼びます。それが一つの「氣・精・神」として表出し、「氣・精・神」が統合され「大極にある本来の統体の似姿」・「統合体」をなすとき、そこへ「命」が宿るのだと思います。 「元氣」は大極に準備されていて、ここから「氣」として送り込まれ、生命活動を推進する「氣」、この「氣」の精華である生殖、成長や発育、身体の充実、活性の基礎となる「精」。この「精」が充実すれば、そこに「神(心的作用)」が宿ると考えられてきました。つまり「氣・精・神」は「氣」として「大極」から送り込まれるものであり、決して人為により密造されうるものではないのです。 もし、身体に「大極」から来る「氣・精」が送り込まれないと、それは物にすぎない。この物に飲食・呼吸・環境を通して「氣」が供給され、氣の転化した「精」が充実した時、そこに「神」が宿るとされています。