一体は全体のためにあります
一体全体の理教えて頂いたこと36 自己が全体とイコールになった場合「一体全体の理」を頂いた姿といえます。自己の生存の目的と意味が全体の役にたち、全体の為に生きる事が「一体全体の理」です。例えば、次の様な例題を考えてみますと、台風の大雨によって川の水位が増し堤防が崩れ始めました。自分の家が堤防のそばに建っていました。もし自分の家を犠牲にして壊し、堤防を補強すれば町全体が洪水から救われます。「一体全体の理」を頂いている場合は、全体の為に自己の家を犠牲にする事が出来ます。全体の為に生きる自己は全体と一体となっている自己です。即ち、自己の存在は、全体の存在です。この場合、最も大切な悟りは「自己が全体の為に犠牲になるというのでは無く、自己が全体として生きる姿である」という事であす。これが一体全体として生きる「生命一体全体化の理」です。全体の為に生きる事が出来る自己と成った場合、親の理を頂いた姿といえます。神生力とは誰にでも直接に働いている力と働きであります。心臓の動きも、新陳代謝も、直接に働いております。人間の造った人造神仏に頼って、神通力を頂くというような事ではありません。人間の造った人造神仏には、力と働きはありません。何故なら、どの仏像も、単なる物質であり、生命はありません。積もったホコリも取り払うこともできないからです。犠牲という事は、あり得ません。全ての為に、一体全体として生きる本来の生き方があるだけです。全体の為の犠牲という事は、自己が全体の一部であることを基準にした場合の考えであり、悟りではありません。全体の為に生きるという考え方が生命の「一体全体の理」に適った悟りです。