カテゴリ:バイリンガル教育
前回、友人と北京に日本語補習校ができたら子供を通わせるか、
という話をしたことを書きましたが、 その時、話に出たのが、英語圏の現地校や、中国の一流現地校 国際部?など、子供によいと思われる教育環境を探し求めて 国境をまたいで何度も子供を転校させたママの話。 ある時、子供が、「ママ、もう転校はイヤ」と泣きついた時、 そのママは自信を持ってこう答えたそうです。 「今はつらくても、将来きっとママに感謝することになるから、 頑張りなさい」 すごいなぁ。そう言い切れる自信は一体どこから来るのだろう。 子供はまだ自分の将来についての判断力がないから、 親がある程度レールを敷いてあげないと、 という考えも分からなくはないけど、 まるで子供の人生を親が丸抱えで作っていってあげるというのは どうなのだろうなぁ~、とも思ったり。 確かに、人間は、過去も含めて、 どこかで自分を肯定したい生き物だから、 子供の頃に転校を重ねてどんなに大変な思いをしたとしても、 その子は大人になった時、 「これでよかったのだ」と自分の過去を肯定し、 自分に多言語環境を渡り歩かせ、様々な経験をさせ、 高い語学力を身に付けさせてくれた親に感謝するかもしれません。 しかし、子供にそんな大変な教育を施さなかったとしても、 子供は同じように、親に感謝するのではないだろうか。 特に、わが子の場合どうだろうと将来を想像してみた場合、 「お母さん、週末にどんなに大変でも 日本語補習校に通わせてくれてありがとう」 などと言っているわが子と、 「お母さん、放課後や週末にあれこれ用事を詰め込まず、 僕に好きなことをする自由な時間をくれて、ありがとう」 と言っているわが子の姿を思い浮かべた場合、 2番目のほうがなんとなくしっくりくる気がするつばめ。 (うちの子に限ってですけど!) 親の気持ちとしては、わが子に日本語を身に付けさせたい という思いは大いにあるけれども、 それはあくまで親の希望であって 子供にとっての幸せ、ということを考えた時、 ただでさえ少ない自由時間を長期にわたって犠牲にしてまで 日本語を身に着けさせるのが将来の幸せに 絶対に必要なことなのかもわかりません。 他にもっと好きなことがあるなら、 それを差し置いて必ず語学を、という理由もないでしょう。 まぁ、中国語にハンディがあるなら、 そのぶん日本語ができたほうがもちろんいいのだろうけど、 (というか、日本語を頑張るから、その分中国語が遅れるのか。。。) 両方遅れないように、と欲張ると、 我が家の場合、おそらくギリギリの毎日になります。 それでも頑張らせるのがよいのかどうかは難しいところです。 子供の様子を見ながら、結局は親の判断になってくるのでしょうね。 子供に将来幸せになってほしい、というのは 世の中の全ての親に共通する思いですが、 つばめは、将来の幸せは、今の我慢の連続の上に成り立つものではなく、 毎日の「幸せ」や「好き」の積み重ねの先に あるものではないかな、と思います。 人生80年といいますが、体感する時間の長さは、 子供の頃のほうが長く感じられ、 年を取れば取るほど1年が、1か月が、1日が短く感じられるそうです。 そういう計算でいくと、生まれてから大人になるまでの20年は、 体感時間としては、すでに人生の半分にあたるのだとか。 そんな大切な子供時代を我慢の連続で過ごさせるのではなく、 自分の好きなことを見つけ、追求することに 時間を使わせてあげたい。 とはいえ、本当に子供の好きなままにさせてしまうと、 将来ろくでもない結果になるのでは、と恐れるつばめもいます。 結局、子供を信じてない、ってことなんですかね。 どのぐらい子供の自主性に任せ、 どのぐらい親がよかれと思うレールを敷くのがよいのか、 そのさじ加減は難しいところですね。 子供には自分の好きな道を、と思いつつ、 つい親のあれこれの思いを押し付けてしまいそうになる 煮え切らないつばめ、将来もいいけど、 「今、子供は幸せか」と考えることを 忘れないようにしたいと思う今日この頃です。 ↓本人たっての希望で空手を習い始めてはや3年。 12月の昇級試験にも無事合格しました。 空手1 posted by (C)つばめ 空手2 posted by (C)つばめ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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