ヒロシマナガサキ
戦争は「或る種の狂気」と思われがちだが、本当はそんなことない、というのが私の持論だ。戦争が恐ろしいのは、それが理性の延長線上にあるからで、だからこそ一度動き出したら止められないのだ。ただ、理性の部分で突き詰めることなく戦争に踏み切る国や或は国のリーダーなりが居たとすれば、それは単なる、絶望的にはた迷惑な、救い難い馬鹿に他ならない。===========================i watched "White Light, Black Rain" on TV.a documentary movie by Steven Okazaki, 2007.it was too shocking for me,as one born and raised in Hirosima.here in Hiroshima, the day of a-bomb is a heavy day,even for junior high school boys and girls.[August 6th, 1945. AM 8:15] this is the moment Hiroshima became hell. with one switch and only one a-bomb. and 3 days after, Nagasaki became the second target. where many Christians live. still, the survivors of that bomb remain Christians. how can you tell their mind?though the day is amidst of summer holidays,students have to got to school to learn about war.mainly about a-bomb, and what we had done, we had been done.for me, this style of education had successfully raisedthe fear against war, to be precise, mass killing.no logical explanation is needed.the instinct fear for physical pain is the most powerful will,will to stop us from operating mass killing.the movie itself was justly shocking for me,and i am actually get enought damage from it.however, i am and will never regret watching this.if we can survive on this nuclear-full earth with certain peace,the most effective, and may be only one means is "imagination"."peace" greatly depends on however we can imagine, can continue imaging.cuz we cannot go back to the erain which no a-bomb existed.=============================NHKハイビジョンで放送された『ヒロシマナガサキ』を観た。ずっと観てみたいと思っていたドキュメンタリだったけれど、広島人の私にはいささかダメージが大き過ぎる。後半で、トランぺッターの近藤等則さんが長々とフィーチャーされていたのには驚いた。世界中で色々な悲劇が毎日のように起こり続けている。その中のただのひとりである私だけれども、広島に生まれ、ここで教育を受けて育ったことは特別だと感じた。誇り、というのとはまた違う。誤解を招くかもしれないが、良かった、と感じるのである。なぜなら私は戦争の酷さを、実体験では無いにせよ、幼い頃からずっと叩き込まれている。冒頭、原宿あたりでインタビューを受ける同世代の若者達が揃いも揃って原爆投下日を知らないのはショックだった。みんな知っていることだと思って疑わなかったから。広島県では、夏休みの間だろうと、8月6日は登校日だった。休みなのに小学校に駆り出されては戦争の話を聞き、そうして生々しい写真を否が応でも見させられる。着物の柄のままの火傷を負った婦人とか、背中が一面、真っ赤にずり剥けている少年とか、黒こげになったまま硬直している死体の重なりだとか、一瞬にして炭素だけの存在になり階段に焼き付いた人の影だとか。正直、あの登校日は憂鬱だった。理屈や正義感からではなく、もっと人間として根本的な「肉体的な痛みへの恐怖」および「本能的な恐怖の回避」があるから、私は何が起きようと、選択肢に「戦争」を入れないで生きることができる。核兵器だろうがTNT爆弾だろうが槍だろうが何だろうが関係ない。もちろん、原爆は嫌だ。すごくすごく怖い。地球を何度でも破壊できるだけの「それ」を人間が作ってしまって、遣り場に困っていることも。地球を何度でも破壊できる、というと単なる大きなイメージしか湧かないけれど、私や、あなたや、その家族や愛する人たちを何回も何回も黒こげや丸焼けや火傷だらけや白血病やあらゆる癌やケロイドや後遺症やらで死なせたり苦しめたりを永遠に続けられると考えれば、その恐ろしさは少し、想像の範疇に近くなるのではないかな。私は、今でも8月6日が怖い。その日に広島に雨が降ることは少ないから、ぎらぎらとした太陽の下で、思わず想像してしまうのだ。もしかしたら、と。8月6日前夜、つまり8月5日の夜も怖い。眠りにつくときに、「もしかすると明日」なんてことをどうしたって考えてしまうのだ。可能性は、ゼロとは言い切れない。ゼロと言い切れる地球には、もう戻れない。ではどうすればいいのか。どうしようもない。痛みと、痛みへの恐怖を想像できる人間であり続けることしか、私たちにはきっと、生きていく方法は無いのである。<ヒロシマナガサキ:White Light, Black Rain>http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/追記:「ダイ・イン」という活動にはどうも賛成しかねる。 被爆者の気持ちになって、とかそういう理屈なのかもしれないが、 本当の被爆者がその光景を見てどう感じるかは考えないのだろうか。 私の目には、とても無神経な自己満足イベントにしか映らないのである。