ブレンダル
年越しにあたって私の頭の中を占めていたのはブレンダルだった。ここのところよく思い出しては彼が個人的に抱いていた、論理ではない感情が結局どんな類のものであったのだろうかと思いを馳せる。動物に例えるなら、まさにコウモリみたいなもので。鳥でもないし四つ足でもない。鳥でもあるし四つ足でもある。哲学者からは「言語論的過ぎる」とされ言語学者からは「哲学的過ぎる」とされた。彼はそれを自覚しても居た。この世にはいないから話を聞く方法はなし。ブレンダルは嫉妬にかられていただろうか。たとえばイェルムスレウに対して。ブレンダルは孤独だっただろうか。何にも属しきれない持論と自分の性質に。彼は、どうすれば良かったんだろう。自分を一つのカテゴリーとしてカテゴライズ、しきればよかったのに何て思うのは現代人の勝手で、もしかしたら自己プロデュースを頑張っていたかもしれない。たとえばジョン・ケージみたいに一見なれど奔放に「分からない事は分からないのだ、それがこれだ」みたいな岡本太郎風(誤謬を含むのは既承)の開き直りができてれば繋がる道も後続もあったのかもしれない。でも、そうじゃないからこそのブレンダルなのだ。分析して整理しようとするのは個人的な作業だ。人の意見を取り入れるのも個人的な作業だ。でもそれを誰かに説明することと、その後に飛んでくる批評は必ず他者を含む。思うに、彼は丁寧すぎたのかもしれない。論理と感情、学壇と私事とが、不器用にも切り離せなかったのかもしれない。そんなブレンダルが私は好きだ。共時性/通時性なんてものよりも、彼が様々な品詞に与えた「クラス」論の方がわりとしっくりくる。哲学畑から出発したことで言語論を客観的要因として見つめられたのかもしれないし、それによって両者から結局は受け入れられきれなかった。====================…というようなことを年越しの頃に考えていた。今は、漢字熟語はpassive/activeという「性/態」を含まないということ、について考えている。態を含まない語を排除して文章を書くことで私の感じるところの滑らかな日本語になるのではないか、とも。====================今の生活に足りないのは、こんな体調で言うのもあれだが、刺激だ。脳みそを使わない会話が多過ぎる。私の脳みそは今、思春期並みに鬱憤を抱えている。たとえば文学や音楽や言語学の話をしようとしてもそれらは日常会話として見なされず、すぐに却下される。久々にそういった会話が出来る人が見つかってもその面々の大半は、既知の知識を再説明するに留まり、新しく探しているもの、新しく見つけたものの情報はほぼ皆無と言って過言ではない。ヴィトゲンシュタインのひと言についてやいやい言うのも、愛その他について語るのも、おんなじレベルだと思うんだけど。====================脳みそが、話し相手を探してる。こうしてタイピングしながらも、私の脳内は色々と駆け巡って、今、筒井康隆の「虚人たち」を読んだらきっと覚醒的なみずみずしさを感じられるだろう、あの本が立ててある場所は…とか、ずっと考えている。ひとりで居ることが苦でもなく、むしろ最近はそちらを強く好むようになったのは、脳みそを使える話し相手が居ないのが原因である。頭を使うことは、=ハートを使うことだと思うのだが。これは鬱でもルサンチマンでもない。アノミーというか、何と言うか、ただの脳みその欲求不満、或は運動不足である。どのくらいかと言うと、たとえば恋人が凄く素敵な裸体で目の前に現れても、飛びつかずにとりあえず服を着てもらいながら、「キング・カーチスでも一緒に聴こうよ」とコーヒーをいれられるくらいの欲求不満である。笑う、酔う、歌う、を排除した、普通の会話はどこかに転がってないものか。