余後の消費
恋人の父親が見つけて紹介してくれた病院が、なんだか少し怖いので、今回は失礼させてもらうことにした。このまま静かにしていれば、ゆっくりと熱が引くような気がするのだ。そんな気は少なからず以前からあって、ただ「そのまま」「静かに」していられない事態が次々と私の身の回りに起きる、或は私がそういうのを招いてしまう。今度こそは、このまましばらくおとなしくしていたいと思う。世の中は、もう既に一回りを終えて、今は「余後」に入っているように映る。だから持て余しているのだ、この時代を。ただその時代の中にも1つ1つの生活があって、煩雑な日々の苦悩だったり喧噪だったり喜びがあったりする。そういうものに振り回されながら、振り回されきれず、遠心力の届かない内側で、じっとしている。このままだと自分だけ沈殿してしまいそうでもある。だからといって遠心力の方へ行ききることもならず、少し手を伸ばしてはゆらゆらと余波に揺られてみたりもする。電車や車で遠くへ行くときに最近とみに感じるのだが、人間が、日本中の色々な場所で生活しているという事実は何度考えても不思議でならない。想像を超えている。空想や妄想が趣味ではあれど、こういった個々の日常の生活こそ私の想像を常に超えたところにあるものだ。恐ろしいようでもある。覚悟があってそこを選んだのか。自然にそこに居着いたのか。どんな根拠と歴史がこの人やこの家をここに至らしめたのだろうか、毎日に抱く喜びや疑問はどのようなものであるのだろうか、そんな個人生活の粒々が密集した中にまた自分もあるのだと思うとどうにも身の置き場が無い風にぞわぞわと落ち着かなくなる。まだ私が数学の授業について行けていた頃、というのは正しくない。私が楽しめていたのは多分、「算数」までだったから。私は割り算が楽しかった。「7÷3=2…1」の、「…1」のところが好きだった。余りは余りとして居場所があるようなところが、余りが余りであるくせに変に堂々としているようなところが好きだった。割り切れないものを割り切ろうとする段階になると、私はその教科が嫌いになった。大様に割って、割り切れないものは実数のまま、堂々と残しておいてやればいいのに、そんなことを思っていた。「7÷3=2…1」今は、割り切られてしまうことに少しだけ憧れている。「2」のグループに入ることを。もしくは、「2」のグループとして既に割り切られてしまった者たちに。でもその数倍か数十倍の強さで私は、「…1」の佇まいに焦がれて居るのだ。