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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
10.ディスコ三栄荘 ~風を変えて~
電車は沼袋に着いた。 「6月も、もう終わりね。 私達の関係は、いつまで持つのかしら…?」 香織は私の右腕に両手を廻しながら云った。 「さあ…? 取り合えず2ヶ月は持ったな。」 夜近い沼袋駅前は、仕事帰りの人々で混雑していた。 「初めて逢った頃と比べて、私、変わったかしら?」 「どうして?」 「最近、一人で居る時も、あなたの事許頭に浮かんで来るのよ。 あなたは全然変わらないわね。」 何か云おうとして、私は止めた。 踏み切りの向うに、柳沢が立っていた。 次の瞬間、香織は私の腕に巻き付けていた手を離した。 柳沢は、夕食を食べに部屋から出て来た様子だった。 彼は此方を視ていた。 「よお。」 私は明るく声を掛けた。 其の夜、香織が飯野荘へ帰って行った後、私は柳沢に彼女と付き合っていた事を告白した。 「俺と久保田とは、特別な関係は何も無いのだから、気にする必要は無いさ。」 柳沢は云った。 「でも一つ残念なのは、彼女が変わってしまった事だ…。」 彼は続けた。 「…群馬に居た頃の彼女は、何か男を近付かせない、或る種の雰囲気を持っていたんだ。 男の云う事を、素直に聴く様な女じゃなかった。 女の弱さを男に見られるって事が、彼女に取って最大の屈辱だったのさ。 仲間はみんな、彼女の事を『あれは強い女だ。』と云った。 何故か俺は、そんな彼女の言動がいつも気になってた。 でも東京へ来てから、彼女は変わったよ…。 彼女は頭の良い女だ。 彼女は大学を落ちたが、丁度高校三年の冬に、前から体の弱かった彼女の母親が倒れて入院する騒動が有った。 彼女は、大学受験に失敗した事と母親が入院した事が関係有る様に云われるのを、とても哀しんだ。 彼女と喋ってると、彼女の頭の良さが凄く分かるんだ。 そんな彼女が、東京と言う都会の所為で変わったとは、考えられない…。」 柳沢は言葉を切った。 「お前は未だ、彼女の事が好きか?」 私は訊いた。 「…否。 俺はずっと彼女に対して、普通の恋愛感情を自覚した事は無い。 彼女の顔や、髪や声が好き、と言う理由では無い様な気がする。 急度、彼女の生き方に、魅力を感じてるのさ。 だから、以前と違ってしまった彼女を、残念に思うのかも知れない…。」 7月1日、中野の空を吹く風と、街の色が変わった。 私には、そう感じられた。 大学の帰り、久しぶりに「高月庵」へ寄った。 「あ…、鉄兵君。」 世樹子は入って来た私を視るなり、泣き出しそうな顔をして側へ走って来た。 「昨日、大変だったんですって…?」 まるで世界が終わるかの様に、不安に駆られた声で彼女は訊いた。 「ああ。大変だった。」 椅子に座りながら、私は云った。 「香織ちゃん。」 世樹子は香織を呼びに、奥へ走って行った。 私は、水もお絞りも来ていないテーブルで、煙草に火を点けた。奥から香織と世樹子が出て来た。 「ゆうべは、御疲れ様…。」 照れ笑いを浮かべて、香織が云った。 「真面目に仕事しろよ。」 私は云った。 「あ、御免なさい…。」 そう云って世樹子は、水とお絞りを取りに又奥へ駈け出した。 香織は声を出して笑った。 そして三角巾とエプロンを着けた儘、私の正面に腰掛けた。 「三栄荘は平和かしら?」 頬杖を突きながら、香織は云った。 「ああ。 平和だよ。 柳沢に全部話したけど…。」 「あら、全部云っちゃったの? それで、彼の様子は…?」 「驚いたみたいだけど…、友情に罅は入らなかった。」 「そう。 良かった…。 そっか。 平和なのか…。 でも、少し残念ね。 もうシークレット・ラブじゃないなんて…。」 彼女は安心した様だった。 私が店を出る時、念を押す様に香織は訊いた。 「本当に、今まで通りね…?」 私は頷いた。 然し其の日、私は風が変わった事を確かに感じていた。 フー子はブロードウェイの地下に有る、狭いカウンターの他にテーブルが一つしか無い、小さな喫茶店でアルバイトをしていた。 7月3日の夕刻、私は其の喫茶店に立ち寄った。 「聴いたわよ。 柳沢君に、ばれちゃったんだって?」 予想通りの言葉を、彼女は云った。 土曜の午後からと日曜には、常に満席になっている其の喫茶店も、其の時は私の他に客が一人も居なかった。 「今夜、洗濯に行っても好い?」 私は、煙草を銜えながら云った。 「好いわよ。 今日は金曜だから…、8時には部屋に居るわ。」 私が珈琲を飲み終え掛けた時、二人目の客が入って来た。 柳沢だった。 午後8時半頃、私と柳沢は洗濯物を持って、フー子のアパートへ行った。 「御腹、空いてない?」 と彼女は云い、御飯が余ったからとチャーハンを作って呉れた。 「フー子ちゃんて、優しい女だったんだね。」 私は云った。 彼女は香織の事に就いて、柳沢に気を使っている様だった。 「あら、そうじゃないと思ってたの?」 「だってさ、物は投げるし、人の背中はブン殴るし…。」 「あれは鉄兵君が悪いんでしょう? 私は初めから、心優しき乙女よ。」 「心優しきフー子ちゃんに、俺達の貧しい食生活を救って貰いたいな。」 柳沢が云った。 「三栄荘でよく食事会をやってるじゃない?」 「否、手料理と言う物は、出来れば毎晩食べたい物なのです。」 「じゃあ、柳沢君にだけ作って挙げようかしら。」 「あれ? どうしてさ?」 私は訊いた。 「鉄兵君は香織に作って貰えば好いでしょう。」 「そうだ。 彼女の云う通りだ。」 柳沢が云った。 「フー子ちゃんて優しい女だったんだね…。」 私は云った。 7月4日の夜、私は三色のセロハン紙とモールを買って、三栄荘へ帰った。 私の部屋では、柳沢とヒロシがテレビを視ていた。 私は、柳沢の部屋に有る電気スタンドを持って来ると、セロハン紙を切り始めた。 「鉄兵ちゃん、何やってるの?」 ヒロシが訊いた。 「今夜の準備さ。」 私は、切ったセロハンを電気スタンドに被せて貼り付け、壁の棚に其れを取り付けた。 そして、部屋の電燈にもセロハンを貼り付けてから、電燈から壁に向けてモールを飾り着けた。 「ディスコ大会やるって、本当だったの?」 ヒロシが云った。 「勿論。 今時、土曜の夜にディスコへ行く奴は馬鹿さ。 踊る場所なんて無いんだぜ。」 「だから自分の部屋で踊る理由か…。」 電燈の色が変わると、私の部屋は違う部屋に思えた。 「近所から、苦情が出ないかな?」 ヒロシが云った。 「宴会の時は、一度も苦情は来なかったな。」 柳沢が云った。 「平気さ。 俺達が此の街の主役だ。 俺達で、住宅街の夜の色を変えるのさ。 俺達の色に、中野の風を変えるんだ…。」 私は云った。 外でガヤガヤと女の声がして、香織と世樹子とフー子の三人が上がって来た。 「わあ…。素敵ね。」 世樹子が云った。 「よくやるわね。」 香織が云った。 乾杯をして暫く酒を嗜んだ後、我々は全員立ち上がった。 ラジカセのボリュームを最大に廻して、ディスコ大会は始まった。 カーペットが滑ってステップが切りにくいので、靴下を脱いで裸足になった。 我々は翔ぶ様に踊った。 土曜日のディスコは殆ど何処も満員であった。 人気の有るディスコでは、テーブルに座れない人間で通路まで一杯だった。 ミラーボールも、点滅するフロアも無かったが、トイレの入口の壁に縋っているよりは増しに思えた。 ヒロシが歓声を挙げた。 部屋の窓は、一杯に開け放たれていた。 我々はいつまでも、自由に踊り続けていたかった。 窓の向うに、いつもと同じ静かな夜の住宅街が見えた。 〈一〇、ディスコ三栄荘〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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