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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
28. 秋の気配
9月20日、私は横浜でみゆきと逢った。 二人は石川町で、電車を降りた。元町の商店街を抜けると、右へ折れ、坂道を登った。 其の辺りは、洋館と緑の多い、静かな処だった。 「あれよ…。」 通りを少し入った処に、フェリスの校門が見えた。 外人墓地の前を歩いて、我々は「港の見える丘公園」へ行った。 「秋の気配」を唄いながら公園を散策した後、二人でベンチに腰掛けた。 其の日、私は彼女に語るべき言葉を持っていた。 ─ 美穂を失った事に就いて、私は私なりに反省をしてみた。 柳沢は云った。 「女はさ、仮令どんなに歯の浮く様な台詞で有ろうと、付き合ってる男に、自分を愛していると言う意味の言葉を聴かせて欲しい、と願うものさ。 言葉を聴く迄は、どうしても確信出来ないんだ。 お前は彼女に愛を語ったか…?」 私は美穂に「好きだ。」みたいな事を、はっきり云った覚えは無かった。 昔から私は、余程必要に迫られない限り、自分から真面目に愛を語る男では無かった。 逢い続けていれば、事は足りると思っていた。 「一度で好いから、付き合ってる女には『好きだ。』と云って置くのが望ましい。 たった一度でも、女は其れを覚えてるものさ。 そうして置けば、理由も無く男を捨てたりはしない…。」 柳沢は最後にそう云った。 ─ 「『港の見える丘公園』なんてさ…、」 私は云った。 「…凄く景色の良い様な名前を付けといて、実は全然違うよな。 俺、初めて来た時、詐欺に遭った気分だった…。 『工場の見える丘公園』に変えるべきだ。」 彼女は「そうね…。」と云って笑った。 二人は暫く黙って海を眺めた。 「ねえ…、」 私は重そうに口を開いた。 「なあに…?」 小さく脚を振りながら遠くを視ていた彼女は、私の方へ顔を向けた。 「あのさ…、」 予め、シナリオは考えて有った。 「何…?」 「実は…、」 海の方へ視線を向けた儘、私は云った。 彼女も前を向いて、聴く姿勢を取った。 「実は俺…、今迄、態と云わなかった理由じゃ無いんだけど、…好きな人が、…居るんだよね。」 彼女は前を向いた儘、黙っていた。 「君に、矢っ張り、全てを云うべきだと思ってさ…。 俺、今、好きな女性が居るんだ。 其れで…、」 私は言葉を切った。 「其れで…?」 彼女は姿勢を崩さずに、微かに云った。 「其れで、其の女性の名前は…、」 私は又、言葉を止めた。 彼女は声を出せずに、唯小さく頷いた。 「女性の名前は、『広田みゆき』って言うんだ…。」 彼女は黙った儘であった。 此処迄は、シナリオ通りだった。 私は彼女の表情を窺った。 彼女は下を向いていた。 そして、声を詰まらせながら云った。 「誤魔化さずに…、ちゃんと云って…。 其の人、何て言う名前なの…?」 私は愕いた。 「だから、『広田みゆき』って言う…。」 「いいのよ…。 本当は…?」 展開は全く予想を裏切るものだった。 「本当さ。 好きな人って云ったのは、君の事さ。 君が好きなんだ…。」 彼女は顔を上げて、私を視た。 赤い眼をしていた。 坂道を下って公園を後にしてから、元町の「友&愛」と言う喫茶店に入る迄、私は何度も、彼女に説明を繰り返さなければならなかった。 「『好きな人が居る。』って聴いた時、『ああ…、此の人は今日、お別れを云いに来たんだ…。』と思って、私、一生懸命覚悟を決める努力をしたのよ…。」 みゆきは、アイス・ティーを飲みながら云った。 そう思わせる様に私が仕組んだ事で、其れは計算の内だった。 「酷い人ね…。」 未だ少し疑いの残っている様な、何処か哀しい表情を彼女は見せた。 女性が、「好きだ。」と言う言葉を聴く事を喜ぶのなら、其の前に眼一杯哀しくさせて置けば、喜びは一層大きなものになるだろうと考えて、私が練ったシナリオは、空前の駄作に終わった。 「友&愛」を出て、中華街で夕食をした。 彼女が餃子に箸を付けなかったので、私はホテルに誘った。 「今日は御免ね…。」 歯を磨いてベッドに戻ると、私は云った。 「もう、いいのよ…。」 「君が感動して呉れるものと許思い込んで…、全く俺は馬鹿だ。 何度も経験してた筈なのに…。 予め考えて置いてから云った台詞が、女の子に受けた例は無いんだ。 いつも、受けたのはアドリブだった…。」 「そうなの…?」 「そうさ。」 「好きだって云って呉れようとした事は、矢っ張り嬉しいわよ。 でも、女はね、言葉なんか無くても、其の人と何度も逢っていれば、本当に自分を好きかどうか位、解るものなの…。 私は、愛の言葉を何10回聴くより、相手が自分を愛して呉れてるって、感じる事が出来る方が好いわ。」 私は柳沢を少し恨んだ。 「俺の場合は、逢っていて、どうだい…?」 と訊いた瞬間、初めて私は、或る恐ろしい仮定に気が付いた。 そして、全てを後悔した。 「そうねえ…。 どうなのかしら…?」 彼女は、はっきり答えなかった。 声の調子は明るかったが、其の瞳は公園で視た、そして其の後も暫く消えなかった、あの哀しい瞳と同じに見えた。 私の心は狼狽した。 彼女の眼は、恐るべき仮定を肯定していたのだ。 (そうだったのか…。 本当に俺は馬鹿だ…。 彼女はこれ迄俺と逢っていて、俺の心を或る程度感じ取っていたのだ…。 そして多分、俺には他にも付き合っている女が居る事も、薄々解ったのだ…。 だから今日、公園で彼女は…。 彼女は急度、『ああ、矢っ張り…。』と思ったに違いない…。 しくじった…。 藪蛇…。) 私は柳沢を大いに恨んだ。 私の心は動揺を喫していたが、いつもの様に私は彼女の髪を撫でた。 彼女は気持ち良さそうに眼を閉じて、小さく呟いた。 「でも、好きだって、云って呉れたわ…。」 私は、彼女の其の微かな口許の動きを視て、背中に冷たいものを感じた。 彼女の唇が、「好きだって、云わせたわ…。」と動いた様に思えたのだ。 跳ね上がって、床の上に転げ落ちそうな衝撃が、全身を襲った。 (まさか…、此れは考え過ぎだ…。) 私は自分にそう云い聴かせた。 私は、更に恐ろしい仮定を見出だしたのだった。 それは、彼女が私の全てを見抜いて居て、彼女にしてみれば、自分は私と関係している女性達の中の一人と言う立場であり、自分に注がれている愛情は、私の全ての愛情の中の何分の一かである…、そして彼女は、今日のシナリオの成り行きをも、途中で既に予知していた…、然し、態とああ言った態度を取って私を慌てさせた、と言うものだった。 それは、私に「好きだ。」と云わせる為なのか…? それとも…、彼女の哀しい復讐であるのか…? (…復讐? …俺に? 待てよ…。 復讐…。 そうか…。 美穂は…?) 私は混乱した。 (全てを見透かされている…!) 私は揺れ動いている心を、みゆきに悟られまいと必死だった。 然し、心を隠そうとすればする程、彼女を上手く抱く事が出来なかった。 「鯖の味噌煮が食べたい…。」 私は云った。 私は魚が嫌いだった。 「魚、嫌いなの…?」 以前、香織が私にそう尋ねた事が有った。 「うん。 肉の方が美味い。」 「そりゃ、そうだけど…。」 「でも、刺身は好きだぜ。 寿司も…。」 「何て人なの…。」 「それと、後もう一つ。 鯖の味噌煮も…。」 「鯖の味噌煮…?」 香織は笑った。 「何が可笑しいんだい? 鯖の味噌煮は美味しいと思わないかい? あれは、魚料理の…、否、和食の最高傑作だ。」 「御免なさい…。 何と無く可笑しかったのよ。 確かに美味しいわね…。 私も好きよ。」 「ああ…、鯖の味噌煮が食べたい…。 此の胸の切なる叫びが、聴こえるかい?」 「腹の叫びでしょ…? でも好いわ。 今度、作って挙げる。 あなた、全然魚食べないから…。 矢っ張り、肉だけじゃ無くて魚も食べた方が好いわよ。 バランスって事も有るでしょうし…。」 と言う成り行きに因り、9月23日、中野ファミリーの食事会のメニューは、鯖の味噌煮となった。 食事会の後、ヒロシとフー子はオセロを始め、香織、世樹子、柳沢と私は、マッチ棒で遊んでいた。 「何だい? 其れは。」 私は世樹子に訊いた。 「犬よ。」 「犬…? 豚にしか見えんが…。」 柳沢が云った。 「豚なら豚でも好いわよ。」 香織が云った。 「此の犬はねぇ、悪い犬なの。」 世樹子は云った。 「豚だろ…。」 「…悪い豚なの。 だから、マッチ棒を2本動かして、殺して欲しいの。」 「殺す…? そんな残酷な事、俺には出来ない。」 「とか云って、解らないんでしょう?」 香織がニヤニヤしながら云った。 「ああ。 降参だ。」 「こうするのよ。」 「成程…。」 私と柳沢は感心した。 〈二八、秋の気配〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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