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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
41. 雨の夜
眼が覚めて、少し眠っていた事に気付いた。向かいの建物にも、直ぐ前の小さな通りにも、朝の光が降り注いでいた。 街はもう活動を始めたらしく、何処からとも無く、ざわめきが聴こえていた。 時計を視ると、6時であった。 つい2時間許前には、寒さと静けさに包まれていた事が、まるで嘘の様に思えた。 世樹子は、私の左腕の付け根辺りに顔を埋めていた。 「鉄兵君、起きたの…?」 突然、耳元で声がした。 「何だ、君は先に起きてたのか…。」 「ええ…。 気分はどう…?」 彼女は顔を上げた。 私は何人もの寝起きの女の顔を知っていたが、彼女の薄化粧の眉の下と艶やかな白い肌には、一遍の翳りも見えなかった。 「背中が少々痛い外は、別に普段と変わった処は無い…。 どうやら御互い風邪を引かずに、済んだみたいだな。」 「だって、ゆうべは温かかったもの…。」 同じ様に泊まり込みを行った周りの人間達も、ちらほら眼を覚まし始めている様子だった。 我々は毛布を折って上半身だけ起き上がった。 私は煙草に火を点けてから、痺れ切った左腕を摩った。 「あ…、御免なさい。 私ったら、腕枕の儘眠ってしまって…。 大丈夫? 痺れてるんでしょ…?」 「平気さ。 壊死は免れたみたいだ。」 「本当に御免なさい。 とても気持ちが良かったものだから…。」 「気にする事は無い。 今度、君の膝枕を借りる口実が出来て、俺は喜んでるんだし…。」 そう云って私は、缶コーヒーを買いに立ち上がった。 7時頃、係員が出て来て整理券を配った。 サン・プラの前には、チケットを買い求める人間の長蛇の列が出来上がっていた。 整理券を受け取ると、私と世樹子は朝食を食べにサンモールの「マクドナルド」へ行った。 「食べ終わったら、君は直ぐ飯野荘へ戻りなよ。」 「でも、チケット…。」 「チケットを買うのは1人居れば充分さ。 さっき訊いたら、1人2枚迄買えるって。」 「何か悪いわ。 此処迄来たら、最後迄付き合うわよ。」 「君は試験の前日に泊まり込んだんだから、其れで充分さ。 余り寝て無くて辛いとは思うが、ちゃんと英検を受けて欲しいな。」 「…解ったわ。 じゃあ、そうするわね。」 我々は再びサン・プラの前に戻って来た。 「毛布はどうするの…? 1人で3枚も持って歩けないでしょ。 矢っ張り…。」 「どうせ其の内、柳沢が遣って来るさ。」 「そう…?」 「君はもう行きな。」 「うん、じゃあ…。」 「試験、頑張ってね。」 「うん、有り難う…。」 世樹子は飯野荘へ帰って行った。 8時頃、柳沢は現れた。 「よぉ、ゆうべはよく眠れたか?」 私は彼の肩に掛かったDバッグに眼を奪われた。 「まあな。 お前、其の恰好…。」 「ああ、今日はサークルの用事が有るんでな。」 「そうなのか…。」 私は柳沢が遣って来たら、彼に整理券を渡して、自分は毛布を1枚だけ持って三栄荘へ帰り、直ぐ眠ろうと言う腹積もりであった。 「本当に柳沢君、来て呉れたのね…。」 声に振り向くと世樹子が立っていた。 彼女は服を着替え、バッグを手に下げていた。 「プレイガイドは10時に開くんだったな。 其れじゃあ、鉄兵、頑張れよ。 もう少しの辛抱だ。」 大学へ行く柳沢に失望し、心配する世樹子に大丈夫だと云い、私は中野駅へ歩いて行く二人を見送った。 9時にサン・プラの玄関口が開いた。 ロビーの椅子に腰掛け、私は睡魔との格闘を続けた。 時計の針が10時を廻って、私はやっと2枚のチケットを手にした。 「其れじゃあ、武道館で又逢いましょう。」 赤いサテンのジャンパーの女と其の連れは、そう云うと疲れた足取りで去って行った。 私は3枚の毛布を肩に抱いてサン・プラを出ると、中野通りの舗道を最後の気力を振り絞って、ゆっくり北へ歩いた。 眠気で頭の中がぼんやりしていて、行き交う人々の視線が気になる事は無かった。 唯、三栄荘迄の道程が、やけに遠く感じられた。 毛布が重く肩に乗し掛かって来た。 瞼がひたすら重かった。 「あと少しだ…。 部屋に着いたら、思いっ切り眠るぞ…。」 私は心でそう叫びながら、歩き続けた。 午後から降り始めた雨は、夜に入っても止まなかった。 私は濡れた儘の傘を細く巻いて、新宿駅の西口を出た。 10月21日、私は小田急の中のレストランで午後7時に、世樹子と待ち合わせていた。 自動ドアを抜けて店の中へ入って行くと、一番奥のテーブルに彼女は居た。 「食事は?」 テーブルの彼女の前に、コーヒー・カップだけが置かれているのを見ながら私は云った。 「此れからよ。 一緒に食べようと思って…。」 「そう…。 まあ、愚問だったな。 待ち合わせた店へ行って、女性が先に食べ始めてたら、こっちは愕いちゃうもの…。」 ウェイターがテーブルの横へ遣って来た。 メニューを眺めながら二人は注文を述べた。 「濡れなかった?」 ウェイターが行ってしまってから、世樹子は口を開いた。 「うん、少しだけ…。 雨の夜に二人で逢うって言うのも、ロマンチックで好いさ。」 「そうね。 でも此処には窓が無いから、外は視えないわ…。」 「夜景の見える店の方が良かったかな…?」 「いいえ。 雨が降ってる外の景色を想像出来る方が好いわ。 視えてたら、其れ以上素敵にはならないもの…。」 彼女には赤いパラソルがよく似合った。 食事を終えて小田急を出ると、二人は雨の舗道を西へ歩いた。 辺りには超高層ビルが建ち並んでいた。 其の中の一つである「新宿住友ビル」へ我々は入って行った。 エレベーターを降りると其処は、パブやレストランが沢山看板を出しているフロアだった。 サークルの先輩が云ったパブの名前を、私は見付けた。 酒がテーブルに運ばれて少しすると、ショー・タイムになった。 女装をした男性が過激なショーを演じた。 彼女は愉しそうに何度も悲鳴を上げた。 心持ち酔ってビルを出ると、雨は霧雨に変わっていた。 駅へ戻る途中、私は自分のスニーカーの紐が片方解けているのに気付いた。 舗道にしゃがんで紐を結び直した。 彼女は少し先迄歩いてから、振り返って待っていた。 紐を結び終えて、私は立ち上がった。 白い靄の中に彼女は立っていた。 其れに煙って彼女の顔が見えなかった。 「世樹子…。」 「何…?」 私は真っ直ぐに、彼女の処へ歩き出した。 中野駅の改札を出ると、雨はすっかり上がっていた。 二人はサン・プラの前を通り、区民体育館の横を抜けて、早稲田通りへ出た。 電報電話局の角を右へ折れて、静かな路に入った。 「鉄兵君…。」 世樹子が云った。 「私、段々悪い女になって行くみたいよ…。」 「…香織の事かい?」 「鉄兵君の部屋に泊まった次の日に、ヒロ子の処に泊まったって、香織ちゃんに初めて嘘を付いたけど、今日も又、嘘を云って出て来たわ…。」 「嘘を付くのがそんなに悪い事なら、俺は既に大悪党だな。」 バス通りを渡って、狭い路地を進んだ。 「香織とは別れるよ…。」 私は云った。 「そんな事、冗談でも余り簡単に云うものじゃないわ。」 「本当さ。」 「駄目、信じないわよ。 さっき、自分で大悪党だって云ったじゃない。」 「君の事とは関係無く、前から彼女とは別れるべきだって思ってたんだ。」 「…どうして?」 「俺と彼女とは、もう疾っくに終わってるんだよ。 否、何も始まらなかったと云う方が正しい…。 俺はね、今迄自分が彼女を愛してるって思った事は、一度も無いんだ。 確かに彼女と喋ってると愉しいし、彼女の言葉には興味を惹かれる…。 でも、俺は彼女を愛してはいないんだ。 好きでも無い女と、俺は付き合い始めたのさ。 そう言う男なんだ。」 「そうなの…。 愕いたわ…。」 路は細く折れ曲がっていた。 「矢っ張り、大悪党だったろ?」 「いいえ、私が愕いたのは、鉄兵君が本当に香織ちゃんと別れる積もりだって事によ。 本当に悪い人は、好きでもないのに付き合った、なんて云わないわ。 其れに鉄兵君が悪い男なら、私だって、もう悪い女よ…。」 「前に云った通り、俺は恋愛に関しては、軽蔑して然るべき最低の男だから…。 君とだって、ほんの軽い気持ちで付き合おうとしてるのかも知れないんだぜ。」 「気持ちなんて、どうでも好いわ…。」 飯野荘迄は行かず、児童公園の前で彼女と別れた。 そして私は雨上がりの夜の下を、三栄荘へ向かった。 〈四一、雨の夜〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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