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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
57. 待ち合わせ迄
「まあ、抜けるのは自由だけど、厭味な云い方は止せよな。」 最初に口を開いたのは、柳沢だった。 「私、厭味なんて云ってないけど…。」 香織が云った。私は窓を開けた。雨は思ったより激しく降っていた。 「やだ…、帰れなくなったら、どうしましょ。」 香織が云った。 「鉄兵君と柳沢君、傘何本持ってる?」 世樹子が訊いた。 「俺、2本持ってるぜ。柳沢も確か、2本持ってたよな。」 「じゃ、1人1本ずつ借りて行っても、未だ1本余るわね。」 フー子が云った。 「おいおい、1本だけ余って、俺と柳沢は明日、相合い傘をするのかい?」 「大丈夫、朝には止むかもよ。」 「俺は明日、どうすりゃ好いんだよ?」 ヒロシが云った。 次の日、私は午前中ずっと眠っていた。眼を醒ますと、世樹子が居た。 「ゆうべは傘を有り難う。柳沢君にも、お礼を云っといてね。」 ドアの側に2本の傘が綺麗に畳んで置かれていた。窓の明るさで、雨は上がり、陽が射しているのが解った。私は煙草に火を点けながら云った。 「腹が空いたな…。」 「何か作るわね。」 そう云って、世樹子は立ち上がった。私はぼんやりと昨夜の事を思い返していた。矢張り、香織の言葉が気になった。私が歯痛に苛まれた日から後、香織は私に色々と気を巡らし、又私の心を戻させる思索を試みては、何かと私の部屋へ遣って来た。然し、私の反応は冷酷なものであった。彼女が遂に私への思索を諦めた事は確実だった。そして、昨夜の6人の中で私と世樹子の関係を知らないのは、彼女唯1人であった。柳沢もヒロシも、既に出掛けてしまった後の様だった。私は少し痛む頭を押さえながら、柳沢とヒロシが大変酒に強くなった事を認識した。 世樹子の昼食を食べた後、二人で出掛けた。私は歩くのが辛いと云い、西武新宿線に乗って、高田馬場で山手線に乗り換えた。新宿で電車を待っている間に、私は云った。 「香織、何か云ってたかい?」 「別に何も云ってないわよ。」 世樹子の口調は普段と変わらなかった。 「そう…。若しかして彼女、俺達の事を知ってしまってるんじゃないだろうか…?」 「其れは、無いんじゃない?」 「あのさ…、何なら…、俺から香織に話そうか? 俺達の事…。」 「いいわ。…鉄兵君は何も話さなくていいの。心配しないで。」 電車がホームに入って来た。代々木で世樹子と別れ、私は大学へ向かった。 語学と一般教養には年内に試験を済ませる科目が多かったので、12月に入るとキャンパスは賑わった。4限目の授業に出席した後、私と淳一はサークルの溜まり場へ行った。溜まり場は満員で、私と淳一はテーブルに腰を掛けた。 「こっちに坐り為さいよ。」 煙草に火を点けようとした時、美穂の声がした。手招きされる方へ私は行き、美穂が椅子を半分空けて呉れた処へ坐った。淳一は千絵と相席した。 「お前等、好い事やってんな。」 先輩の一人が冷やかしを云った。 「好い事って先輩、こいつ等じゃあねぇ…。」 淳一が云った。 「あら、私達だってあなた等だからこそ、全然気にならないのよ。」 千絵が云った。 「ほぉ…。あ、痛ぇ、骨盤が…。」 千絵は淳一の肩を思い切り叩いた。 「全く、今年の1年は仲が良過ぎるな…。」 先輩の一人が苦笑いしながら云った。私は久しぶりに美穂の肩と太股の感触を味わった。後期が始まってから、彼女と横沢が付き合っている様子は無く、其の様な噂も聴かなかった。唯一度、後期開始後間も無く、横沢は夏合宿だけでフラれたと言う噂を耳にした。美穂と私の同じサークルの一員と言う関係は支障無く続いていた。 5限目の終わるチャイムが鳴って暫くすると、呑みに行く者の募集が始まった。淳一は行くと云った。私は世樹子と約束が有ったので、淳一に其のサインを出した。 「そうか。お前、独語のノートろくに取って無いものな。ま、頑張って今夜中に写せよ。俺は真面目に授業に出たから、今夜はゆっくり酒を呑んで来るぜ。」 淳一が云った。 「じゃあ、鉄兵、一緒に帰ろう。」 美穂が云った。 「あれ、美穂ちゃん、行かないの?」 千絵が振り返って云った。 「だって、ゆうべお母さんから電話が有って、今夜も掛けるって云ったんだもん…。」 キャンパスを抜けて、正門の処から、サークルの皆は市ヶ谷駅の方へ歩いて行き、私と美穂は飯田橋へ向かった。淳一の女性からの人気は矢張り、絶大なものが有った。彼の人気は、彼が呑みに行くと云えばサークルの女達が皆、其の夜のコンパに参加し、そして女達が参加すれば男も皆参加すると言う現象となって現れた。 「鉄兵、今夜、女の子と約束が有るんでしょう?」 桜並木の路を歩きながら、美穂は云った。 「え? どうしてさ。」 「解るわよ。あなたがノートを書き写す様な面倒臭い事、する理由ないもの。コピーしちゃうでしょ、普通。其れに、井上君が真面目に授業出てる理由ないじゃない。」 「成程…。」 「誰…? 香織さん? 私の知らない女の子かしら?」 私は夏合宿以降、美穂と私的な会話をしていない事に気付いた。 「香織とは別れたんだよ。」 「…そう。じゃあ、今夜のは知らない娘ね。」 「否、君も知ってる。」 「…。…誰? あ、無理に教えて呉れなくてもいいのよ。」 「世樹子さ…。」 「世樹子さん…。ふぅん、あの娘…。」 「交際範囲が狭いだろ? 結構、不自由してるんだ。」 飯田橋の駅舎が見えた。 「ねえ、何時に待ち合わせしてるの?」 「7時に新宿。」 「未だ随分有るわね。サテンへでも寄らない?」 美穂の表情は前期の頃の其れに戻っていた。 「ああ、好いよ。でも、お母さんの電話は大丈夫なのかい?」 「電話が掛かって来るのは8時頃よ。」 二人は神楽坂の方へ歩いた。 「来夢来人」と言う名の喫茶店で、私と美穂は珈琲を注文した。 「そっか…、世樹子さんか…。後期になってから、ずっと鉄兵が私に冷たい筈ね。」 「君は俺をフッて置いて、よくそんな事が云えるな。夏の金沢は哀しみで一杯だった…。」 「あら、いつ私が鉄兵をフッたの? 金沢の事は少し悪かったと思うけど、鉄兵がはっきり決めて無いのにホテルを予約しちゃうんだもの。…御免なさいね。私の為に予約して呉れたのに…。」 「もう、いいんだよ。其の事は…。」 私はウェイターとジャンケンをして勝ち、珈琲を1つ只にして貰った。 「ずっと尋ねてみたいと、思ってたんだけど…。」 私は云った。 「君はいつ、俺の事を嫌いになったんだい? 夏休みに、お互い帰省していた間…?」 美穂は珈琲を一口飲んで、又テーブルに置いた。 「鉄兵を嫌いになった事なんて、一度も無いわ…。」 「嘘。じゃあ、どうして…。」 「鉄兵は、女の言葉を信用し過ぎるのよ。」 「え…?」 「私が本当に、鉄兵に香織さんとかが居て、其れでも逢って呉れるだけで好い女だと思った?」 成程と、私は思った。彼女は曾て私に其の様に云った事が有った。然し、彼女はあの御対面事件を、ずっと許せないでいたのだった。考えてみれば、当然であった。あんな事が有った後で、呑気に夏合宿に参加した自分に対して、私は苦笑いを禁じ得なかった。 「でも、あなたって、冷たい男ね…。」 私は、今でも彼女は私の事が好きである様な気がした。唯、私の心は其れについて、深く探ってみようとはしなかった。 「君は俺に、充分復讐を果たしたさ。」 「何よ、復讐って?」 「否、夏合宿の後、俺は随分落ち込んでしまった。君を失った事が、とても辛かった…。」 「ふぅん…、本当かしら…。」 「本当さ。」 「でも、私は夏合宿の時も、後期の間中も、ずっとあなたの事を視てたのよ…。」 「…其れが真実なら、君の演技力は完璧だ。俺には全然見抜けなかった…。」 美穂は有楽町線の方へ歩いて行った。私は国電のホームへ向かった。 「今日みたいに、又二人限で逢って呉れるかしら…?」 喫茶店を出た後、彼女はそう云った。私は「好いよ。」と答えた。電車は直ぐに来た。時計を視ると、6時半であった。 〈五七、待ち合わせ迄〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年11月20日 09時42分09秒
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