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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
58. 児童公園事件 パーティー・シーズンを迎え、浮かれた学生達で賑わう街を後にして、私と世樹子が中野へ帰って来たのは、深夜近い頃だった。 「今夜は、泊まって行けば?」 私は云った。 翌日は木曜で、彼女は午前中ゆっくり出来る筈だった。 「うぅん…、」 世樹子は暫く考えてから云った。 「…止めとくわ。 私が泊まったら、鉄兵君、体育サボりそうだから。」 二人は飯野荘へ向けて歩いた。 「そうそう、鉄兵君が東京タワーへ行きたがってるってみんなに話したらね…。」 「何だ、話したのかい…。」 「あら、いけなかった?」 世樹子は愉しそうにクスクス笑った。 「どうせ、みんな馬鹿にして笑ったんだろう?」 「そんな事なくてよ。 ヒロ子やフー子達も、一緒に連れて行って欲しいって云ってたわよ。 ねえ、彼女達も誘って好いでしょ? まあ、鉄兵君は当然好いわよねぇ…。」 「…。」 「好いでしょう?」 「好いよ…。 じゃあ、男にも誰か声を掛けとこうか?」 「其れは、どうでもいいんじゃない? みんな、鉄兵君と行きたがってたから。 で、日時だけど…。ノブちゃんがね、来週の水曜日が好いらしいのよ。」 「ノブちゃんも来るの?」 「ええ。」 私は「香織は?」と訊こうとして止めた。 香織が来る筈は無かった。 私は、香織が来ないのにノブが来ると言う事を考えていた。 「どう? 9日の水曜日。」 「俺は構わないよ。」 「じゃあ、決まりね。 みんな喜ぶわよ、急度。」 「何か、俺の事を笑いに来る様な気がするな…。」 「今更、誰もあなたの事、笑いになんか来ないわよ。」 穏やかな夜だった。 二人は児童公園の前迄遣って来た。 其処から飯野荘迄は40メートル程であった。 二人共、直ぐには別れ辛くて、公園のブランコに乗った。 公園にも、辺りにも、誰も居なかった。 「香織はもう、帰ってるのかな…?」 「どうかしら…?」 時刻は零時を随分廻っていた。 「多分、お部屋に居るんじゃない…?」 世樹子が香織に、私との関係を告げる積もりが有るのかどうか、私には解りかねたが、彼女の人に対する優しさは愛を手にしても猶、崩れ去るものでは無い事は確かであった。 私は柳沢に、世樹子について語った事が有った。 ── 「どうやら俺は、彼女の事を好きになったらしい。」 私は云った。 「…ふむ。」 柳沢は煙草を深く吸った。 「其れで、久保田と別れたのか?」 「そう思われた方が、良いのだが…。」 私は意を決して、香織に対して自分が愛を確認した事は一度も無い旨を告げた。 「…そんな気が、何と無くしてた。」 柳沢は灰皿を何度も叩きながら、そう云った。 私は彼に対する心の溜飲を下げ、煙草に火を点けた。 すっかり短くなってしまった煙草を灰皿へ捨てて、柳沢は又静かに口を開いた。 「鉄兵、俺は、お前が好きだ。 そんな事を、俺に打ち明けて呉れるのは嬉しいけど…、お前が俺に隠し事を持っていたって、俺達の友情は変わらないよ。 お前はずっと、俺に気を使い過ぎてる。 確かに、俺は今でも久保田の事が気になるけど…、俺は嫌いな人間と平然と付き合える程、面の皮は厚くない。」 「俺を許して呉れるのか?」 柳沢は笑った。 「許すも許さないも、最初からお前が好きなんだから…。」 今日、バイトでブランデーを貰ったのを思い出した、と云って柳沢は自分の部屋へ行き、其れを取って来た。 「世樹子は前から、お前の事が好きみたいだから問題無いな。」 ブランデーをグラスに注ぎながら、柳沢は云った。 私は、もう何度も彼女と二人限で逢っている事を話した。 柳沢は笑って聴いていた。 「ヒロシには、もう云って有るんだ。」 「何だ、知らなかったのは俺だけか、…久保田と。 まあ、ヒロシは傷付かないよ。 彼奴も世樹子が鉄兵に気の有る事位知ってるし、奴の場合は恋愛対象と言うより、彼女を女神の様に挙げ奉ってたからな。」 我々はVSOPをグイグイ呑んだ。 「世樹子は優しい女だな…。」 柳沢が云った。 「ああ。 優しい女だ。 馬鹿な事を云う様だが、あれ程優しい女を、俺は初めて視た。 普通、自分の優しさってのは、他人に解って欲しいと思うものだが、彼女は違う…。 多分、其れが本当の優しさなんだろうけど…、彼女は誰に対しても、…自分の優しさが伝わらなくても、人に優しく出来るんだ。」 ── 私はブランコを降りて、ジャングル・ジムに昇った。 「怖くない…?」 世樹子は未だブランコを揺らしながら訊いた。 「怖い。」 私はジムの一番上から云った。 「じゃあ下りて来為さいよ。」 世樹子は少し心配そうだった。 私はゆっくり立ち上がろうとした。 「止め為さいよ。 落っこちても知らなくてよ。」 立っているのは本当に怖かったので、私は静かに腰を落とした。 と、其の瞬間、私は片方の足を滑らせ、大きくバランスを崩した。 世樹子は悲鳴を挙げてブランコを跳び降りた。 私の両手は予め予定されていた処を確り掴み、そして私は滑らせた足をブラブラさせながら笑った。 「もう…!」 世樹子はジャングル・ジムの下で目許に笑みを浮かべて口を尖らせた。 「私も昇ろ。」 そう云って彼女は怖る怖る、私の側迄昇って来た。 「わあ、好い眺めね。」 穏やかな夜だった。 二人はいつ迄も、ジャングル・ジムの上から夜を視ていた。 公園の直ぐ前の路は街灯に照らされて明るかったが、其の路から左に折れて飯野荘へ続く路は暗くて何も見えなかった。 若い女が1人、前の路を歩いて来た。 片手にタオルの載った洗面器を抱えて、其の女は不意に我々の前へ現れた。 街灯に照らされた其の横顔は、香織だった。 「(あっ)…!」 私は思わず声を上げそうになった。 反射的に私はジャングル・ジムを飛び下り、奥に有る滑り台の後ろへ走り、其処へ隠れた。 隠れながら、香織が我々に気付いたなら隠れても無駄であったと、しみじみ思った。 私は滑り台の陰からジャングル・ジムの方を伺った。 香織は行ってしまったらしかった。 世樹子は未だジムの上で、向こうを向いて坐っていた。 私は一応ほっとして、ゆっくりジムへ近付いた。 「中々好い度胸をしてるね。 てっきり君も隠れたものと思ったが…。」 ジムの下から私は声を掛けた。 「身体が…、動かなかったの…。」 世樹子は泣く様な声で答えた。 私は再びジムに昇り、彼女の隣に坐った。 彼女は本当に泣いていた。 「香織は…?」 私は訊いた。 「気付かずに…、行ったみたいよ…。」 世樹子は片手で両方の眼を擦った。 其の頬が濡れて光っていた。 「一瞬も、哀しませたりしない。」と誓った私の言葉は、嘘になった。 穏やかな夜だった。 次ぐ12月3日木曜の夜も、私は世樹子と一緒に居た。 我々は三栄荘へ戻ると、柳沢と三人で洗濯物を持ってフー子の部屋を訪れた。 「来た、来た。」 そう云ってフー子はドアを開けた。 「男が部屋に来る事が、そんなに嬉しいのかい?」 柳沢が云った。 「失礼ね。 私は未だ其処迄、都会に染まってないわ。」 「じゃあ、何でそんなにニヤけてるんだい?」 「あら…、ニヤけてた? 私…。 嘘でしょう?」 フー子は頬に手を当てて笑いながら台所へ行き、コップとジュースを持って出て来た。 「でも、フー子ちゃんは一頃に比べたら、すっかり元気になったわね。」 世樹子が云った。 「ま、どうせ人間なんて、いつ迄も落ち込んでは居られない軽い生き物なのさ。」 柳沢は云った。 私はベランダへ出て、洗濯物を洗濯機の中へ詰め込むと、標準サイクルのボタンを押した。 「やあ、鍋物の美味い季節になりましたなぁ…。」 部屋へ戻るなり話題から大きく掛け離れた事を云い、私はみんなの会話を中断させてしまった。 「鉄兵、御腹空いてるの?」 フー子が訊いた。 「あ、俺、空いてる。」 柳沢が云った。 「何? あなた達、世樹子にちゃんと作って貰ってるんじゃないの?」 「彼女は鉄兵の為にしか、作らないんだ。」 「あら、そんな事無いわ。 私、料理上手くないから…。」 「そりゃあ、ま、香織と比べたら、世樹子が可哀相よ。 香織は器用って云うか、何やらしても上手いものね。」 「そんな事云って、フー子ちゃんだって料理上手いじゃない。 私だけなのよ、不器用なのは…。」 「無芸大食って奴か。」 私は云った。 「そうなのよ…。」 世樹子は下を向いてしまった。 「鉄兵ったら、自分は全然出来ない癖に、よく云うのね。 感心するわ…。」 フー子が云った。 「大体あなた達は、一人暮らしをしていても余り意味が無いのよ。 普通一人暮らしをしたら、男の人でも料理位上手になるものなのに…。」 「俺達だって、上手くなったさ。 作るのじゃなくて、作らせるのが…。」 〈五八、児童公園事件〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年11月08日 15時36分59秒
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