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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
62. 復讐 詳しく状況が把握出来ない儘、私は愛を失くし掛けていた。 ずっと眼覚めは悪かった。 翌12月11日、金曜の朝もそうであった。 私は布団の上に半身を起こし、最悪の気分で煙草を吸っていた。 外は良い天気らしかった。 時計を視ると、間も無く正午になろうとしていた。 重い手足を動かして支度を済ませると、布団は敷いた儘にして部屋を出た。 矢張り、空は快晴だった。 枯葉に覆われた舗道を歩いて、早稲田通りとの交差点迄来ると、勧銀の前の電話ボックスに入った。 呼出音が途切れると、「もしもし…。」と言う声が聴こえた。 世樹子は部屋に居た。 「あれ? 居たの…。」 「…ああ、 鉄兵君…。」 「1人?」 「ええ、部屋を片付けてたのよ。」 「今から、そっちへ行っても好いかい?」 「え…?」 「今、勧銀の前に居るんだよ。」 「鉄兵君、今から学校へ行く処なのでしょう?」 「そうだけど…。」 「駄目よ、ちゃんと行かなきゃ。 午後の授業には出て頂戴…。」 「授業には出るさ。 其の前に、一寸逢いたいんだ。」 「…。」 世樹子の沈黙に、私の心は今にも挫けそうになった。 私は其れを必死に堪えた。 「逢いたいんだ。 今から。」 私は繰り返した。 「…駄目よ。」 「…駄目ってのは、どう言う事なのかな?」 「鉄兵君…、…私達もう、逢わない事にしましょう…。」 全身を何かが駆け巡った。 其れは哀しみと言うより、果てしない痛みだった。 私は懸命に口調を整えた。 「どうしたんだい? 急に…。」 「どうもしないけど…、もう鉄兵君に逢うのは…、止めようと思うの…。」 「どうもしないで、逢いたく無くなったのかい? 一体、良ければ理由を、聴かせて欲しい…。」 世樹子は又黙った。 「香織の事が、やり切れなくなったの…?」 「…ええ、…そうなの。」 (何故だ…?) 私は心の中で叫んだ。 確かに、香織と同じ部屋に同居している彼女に取って、友を裏切る行為に等しい私との秘密の交際は、毎日を辛くするに違い無かった。 然し…、 (俺達二人が離れるより、もっと辛い事が、他に有ると云うのか…?) 世樹子は以前、「嵐は来るかしら?」と云った。 私は「ああ、多分…。」と答えた。 そして彼女は、「私、嵐なんて平気よ。」と云った。 「香織と、何か有ったのかい?」 私は、あの児童公園に居た夜、香織は我々に気付いたのだと、確信した。 「香織の事は、矢張り俺に任せて呉れよ。 今日か明日にでも、俺から香織に話をするから。」 香織はあの夜、ジャングル・ジムに居た私と世樹子を視たに相違無かった。 私は自分の迂闊さを呪った。 もっと真剣に世樹子を守らなければならなかった事に気付いた。 「とにかく、今から逢って呉れないか?」 「鉄兵君…、…あのね、…違うの。 香織ちゃんの事は、本当は関係無いの。 逢わない事に決めた理由は、…私自信の気持ちなのよ。 私の中で…、もう鉄兵君に逢わないで置こうって、そう決めたの…。」 一瞬、私は彼女が何を云っているのか解らなかったが、直ぐに気が付いた。 気付くと同時に、胸に何かが込み上げて来た。 最早、立っていられそうに無い状態だった。 其れでも私は、声を振り絞った。 「其れは、どう言う意味なんだい…?」 「だから…。」 私は「君の気持ちが、冷めてしまったと言う意味かい?」と、訊く事が出来なかった。 「…だから理由は、私の気持ちって事なのよ。」 私は涙を堪え始めていた。 「世樹子…、お願いだ。 せめて、最後に一度…、君に逢いたい…。」 私はやっとの思いで、そう云った。 「…解ったわ。 …じゃあ、今から、其処へ行くわね。」 私は受話器を置いた。 今にも涙が溢れ出しそうであった。 (こいつは駄目だ…。 彼女はもう無理だな…。) 涙を止めるには、そう考える必要が有った。 12月とは思えない程の、風も無く、よく晴れた暖かい日だった。 私は心を立て直して、世樹子を待った。 電話ボックスを出てから30分近く経った頃、彼女は横断歩道の向こう側に姿を現した。 二人共、いつもとは違う笑顔を見せ合った。 ブロードウェイを抜けて、サンモール商店街を歩く間、我々は殆ど口を開かなかった。 私は未だ、世樹子の本当の心が読めないで居た。 唯単純に、フラれたと言うだけの事の様な気もした。 其れならば、早々に別れて立ち去るべきであった。 然し、私の中には、「彼女は私を好きな儘、別れようとしているのではないか?」と言う、希望的観測が有った。 私は最後になるかも知れない、其の二人限の時間に、全神経を集中させて彼女の心を読み取らねばならなかった。 中野駅前のビルの地下に在る喫茶店で、二人は向かい合って腰を下ろした。 ウェイターがテーブルの側を離れてから、私は煙草に火を点け、そして云った。 「…でも、突然だったので愕いたよ。 俺みたいな、いい加減でどうしようも無い男でも、失恋と言うのは堪えるから…、不思議と云えば、不思議だ…。」 世樹子は俯き加減に坐っていた。 私は彼女の表情のほんの細かな動きも、見逃さない積もりだった。 そして、まるで其れを厭がるかの様に、世樹子は顔を半分隠していた。 「ところで、クリスマスはどうするんだい?」 「私…、パーティーには、出れないと思うわ…。」 「香織に続いて、君も中野ファミリーを抜ける理由だ。」 「ええ…。実は、もう直ぐ引っ越しするのよ。」 「…引っ越しって、…。」 私には愕く事許だった。 「引っ越しって、君だけかい?」 「いいえ、香織ちゃんも。 二人共、彼処を出るのよ…。」 「又、2人で住むの…?」 「違うの。 今度は別々に住むの。」 私は引っ越し先を訊く事に、気が引けた。 「そう…。 又、偉く急な話だ…。」 「…さっきも、部屋で荷作りの準備をしていたのよ。」 「じゃあ、引っ越すのは今年中?」 「香織ちゃんはね…。 もう新しい部屋も決まってるし、予定通りなら、あさって越したいって云ってたわ。 …私は未だ次の部屋見付からないから、もう少しは彼処に居ると思うけど、…。」 「今迄2人で住んでたから、急に1人になると淋しいんじゃない?」 「…其れは大丈夫と思うわよ。 今迄だって何度も1人っ限で寝た事有るし、香織ちゃんと鉄兵君が付き合ってた頃なんか特に…。」 「世樹子、君が好きなんだ。 僅かでも好いから、君の時間を俺に呉れないか…?」 私は不意に云った。 「君と逢っていたいんだ…。」 「…鉄兵君…。」 世樹子は完全に下を向いてしまった。 其れ以上、彼女は何も云わず、黙り込んだ。 私は彼女を見詰めていた。 私に取って、哀しい沈黙が流れた。 彼女は顔を挙げようとしなかった。 泣いているのかも知れなかった。 私は、もう立ち上がるべきだと考えていた。 其れ迄の私なら、疾っくに「其れじゃあ…。」とでも云って、店を出ている筈だった。 私は、自分が其れ程惨めなシーンを演じている事を、不思議に思った。 然し、私は立ち上がれなかった。 其の理由を、私は既に知っていた。 私は彼女を愛していた。 そして私は、初めて人を愛したに違いなかった。 私は、此れ以上彼女を苦しめる理由にはいかないと、思い始めていた。 「御免なさい…。」 沈黙の果てに、彼女はそう呟いた。 其れは私に取って、何より辛い言葉だった。 私は静かに失恋と言う現実を受け止めようとしていた。 「御免ね、鉄兵君。」 世樹子は不意に顔を挙げた。 彼女は泣いてはいなかった。 「黙って置こうと思ったけど、矢っ張り本当の事を話すわ。 実は…、私が鉄兵君に近付いたのは、香織ちゃんの復讐の為だったのよ…。」 「え…?」 思いも寄らぬ世樹子の言葉に、私は自分を失った。 「あなたが香織ちゃんと付き合ってた時から、あなたが香織ちゃんを本当に好きで無い事は、誰の眼にも明らかだったわ。 香織ちゃんに随分酷い事をしたわ…、鉄兵君は。 鉄兵君が酷い人だとは充分解ってるけど、でも許してしまうと香織ちゃんは云ったわ。 いいえ…、香織ちゃんは、付き合ってるからと言って、鉄兵君に自分を好きになる事を強制するのは間違いだと云ったわ。 許す許さないの問題では無いと云ったわ…。 でも、私はどうしても許せなかった。 そして私、復讐する事に決めたの。 あなたに…。 あなたが私を本当に好きになったら、…あなたを捨てようと思ってたのよ…。 あなたを傷付ける為に。」 世樹子は淡々と語った。 私は余りにも無防備であった為に、衝撃すら感じる事が出来なかった。 唯、全身の血が何処かへ消えて行くのが解った。 私は蒼い顔をして、茫然と彼女を見詰めていた。 世樹子はもう其れ以上、口を開かなかった。 再び沈黙が始まった。 やがてゆっくりと、私は自分を取り戻し始めた。 「復讐…。」 彼女の云った其の言葉が、頭の中で繰り返されていた。 「復讐…。」 最早其の言葉に、恐怖は感じなかった。 私は全ての報いを受けていた。 唯、自分の犯した罪に対する罰を、全身に浴びていた。 其れを拒もうとはしなかった。 其れ故、恐怖は無かった。 私は静かに眼を閉じた。 其れ迄哀しみに満ちていた心は、いつしか晴れやかに澄み渡っていた。 世樹子に初めて逢った、「高月庵」での事を想い出していた。 彼女は白い三角巾に白いエプロンをしていた。 香織の隣に現れた彼女に、私は既に心を引かれていた。 彼女と過ごした時間が、心の中に順を追って甦って行った。 同窓会の夜、香織の鍵を持って私の部屋を訪れ、いきなり泣き出した彼女を飯野荘へ送って行った事。 隅田川花火大会を観に行って、皆とはぐれてしまい、二人限になった事。 六本木のディスコで偶然逢い、チークを踊った事。 オート・テニスをしようと伊勢丹へ行き、定休日だった時の事。 サン・プラの前で、1つの毛布にくるまって二人で寝た事。 新宿の雨の夜。 授業をサボって、豊島園へ皆で行った事。 東京観光専門学校との合コン。 二人でコタツを抱いて帰った時の事。 後楽園遊園地。 私は眼を閉じた儘、静かに回想に耽っていた。 〈六二、復讐〉 完膚無き迄に打ちのめされ、まるでボロ着れの様に 彼は、世樹子の前に坐っていた ─ 優れた洞察力で、相手の心の動きを見抜き、 彼はいつも自信に溢れて、その言動は周囲の者を魅了した ─ 酒と女と、罪と復讐 ─ もはや希望は絶えたのか? 果たして彼は、甦る事が出来るのか ─ ┌──────────────────────────┐ │ 其の時、電車が遣って来た。 │ 「やった!」 │ 我々は元気を取り戻した。 │ 「未だ電車が走ってるって事は、そんなに長い時間 │ 迷ってた理由でも無いんだ。」 │ 我々は、希望の電車を見送った。 └──────────────────────────┘ 彼等は何度も希望の電車を見送っては、 現実に打ちひしがれて来たのだ ─ 次号、いよいよ準最終回! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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