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カテゴリ:旅行
12月8日 すでに紅葉も終わった京都だったが 研修のついでに ひょっとしたら まだ残っているところがあるかも・・・と 淡い期待を抱いて出かけた京都鷹峯 お目当ては 常照寺・源光庵 常照寺に辿り着いたものの やはりもみじは枯れ落ちて でも 少し前までは見事な紅葉だったであろうことは この枯葉を見ても よくわかるだけに・・・悔しい!! 江戸時代初期の芸術家だった本阿弥光悦が土地を寄進して創建 盛大なころは 広大な境内に 大小三十余棟の堂宇があったそうで 朱塗りの山門は 名妓・2代目吉野太夫が この寺の僧・日乾上人に深く帰依し私財を投じて寄進したもの 太夫は 慶長11年(1606)3月3日 京都市東山区にある現在の国立京都博物館近くで生まれる。 本名を徳子といい 父は松田武左衛門で西国の武士であったが流浪のすえ京に住んでいた。 7歳(1613)のとき父が亡くなり 訳あって六条三筋町の遊里「扇屋」に預けられることになった。 最初は禿(かむろ)として太夫などの雑女をしていたが その時から美しさは際立ち、遠く唐(中国)の国にまで知れていたという。 14歳の若さで太夫の位について源氏名を「浮舟」としたが 遊郭の入口近くに咲く桜を見て詠んだ句から名を「吉野」にかえている。 当時の太夫は、容姿が整い美しいだけでなく 一流の教養や芸能を身につけていなければならず、それだけに太夫の力は絶大だった。 二代目吉野太夫は 書画、和歌、俳歌、花道、茶湯、聞香、太鼓、鼓、琴、三味線、囲碁、双六など諸芸に優れ 「三筋町七人衆の筆頭」「寛永三名妓」などと呼ばれ呼ばれていた。 当時の上流社会の社交場の花であった太夫は 京の豪商で文化人でもあった灰屋(佐野)紹益に見初められましたが 身請けしようとした紹益の親は猛反対。 二人は駆け落ちをしますが 紹益の父が、雨にあって傘を借りに入った家で 世話をしてくれた女の茶立てやその他の振る舞いが礼にかなっているのに感服 その人が吉野であることが分って、勘当をゆるしたという この二人のロマンスは、歌舞伎などでも演じられ有名。 太夫が好んだという茶室「遣芳庵」には 「吉野窓」という窓があり 毎月佳人を偲んで釜がかけられて賑わっているそうです 吉野は38歳という若さで病死しましたが 生前には山門を寄進した縁もあり このお寺に葬られています。 毎年4月の第三日曜日 桜の季節には名妓慰霊のため 島原の太夫道中による墓参・供茶法要が営まれ 境内に野点茶席が設けられ 多くの人が訪れるそうです 本堂の右奥にある客殿へ入ると、庭を眺めながら 寺の紹介のビデオを見せてくれるのも面白いです^^ 全国的にも珍しい帯塚 この石は、四国・吉野川で採取された自然石で 女性の心の象徴“帯”に感謝して昭和44年(1969)に建立されたそう 境内にはもみじも多く こんな可愛い鬼瓦も発見 次回は紅葉の季節に来たいなぁ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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