木曽街道
知らなかったですね。私の住むニュータウンに木曽街道が通っていたんだってこと。そして、私の鎮守神社である笠間神社も通り道になるのだとか・・・笠間神社には木曽義仲が弓筈で掘ったとされる,井戸があるんです。実は、これらのことは、木曜日にあった参観日の社会の授業で聞きました。寿永二年(1183)五月二十一日、倶利伽羅の一戦で大敗した平家軍は、加賀国の篠原(しのはら:小松市街から南西に10kmほど)で再び源氏軍と戦うことになる。 七十歳を越えた老武者実盛(さねもり)は、若武者に侮られぬよう白髪を黒く染め、決死の覚悟で戦いに臨むが、ついには首を打ちとられてしまった。 実は源氏方の大将木曽義仲(きそのよしなか)は幼い頃、実盛に命を助けてもらったことがあった。実盛と旧知の樋口次郎とともに、この雄々しくも哀れな敵将の最期に、はらはらと涙を落とすのであった・・・。 ~『平家物語絵巻』実盛最期の事(林原美術館編著)~本来、平氏も源氏も天皇の分家の末裔にあたる氏族です。けれども長い間、この氏族同士の争いは続きました。ここに記された話もその争いが引き起こした悲話となっています。2歳の義仲を殺すに殺せず、木曽まで送り届けたという実盛は、北陸出身のただの一介の武士だったようです。もしも篠原の戦いにて、このような最後を遂げなければこれほどまでに語り告げられることのなかったでしょう。小松市の多太神社宝物館には斉藤実盛の兜が奉納されています。私の住む地には、この平氏や源氏にまつまる逸話が多々残されています。すぐ近くの海岸には、尼御前という名の岬があります。源義経の奥州落ちの一団に尼御前という尼僧がいたが、安宅の関の厳しさ、これから先の旅路での足手まといを憂い主君義経の無事を祈願しこの岬から身を投げたというのです。その源義経は、その時に能登に流されていた平時忠の娘を伴っておりました。平時忠が、自らの身の安全をはからせるため娘を義経の側室に差し出したということなのですけど、その後義経も兄頼朝から追われる身となります。義経が奥州への逃げ延びるときにも木曽街道をたどっていったのでしょうね。そして、奥の細道を書いた松尾芭蕉もその源義経を追慕してここをたどっていったのです。歴史を知識からではなく、現代から過去への追慕としてたどっていくと、とても身近に、生きたものとしてたち現れてくるから不思議ですね。今日は天気がよいので、次女を連れて早速木曽街道を通って笠間神社へ行って来ました。木曽義仲が弓筈で掘ったとされる井戸のことは知らなかったのであちらこちらを探しまわって、参道の入り口の片隅にあったのを写真に収めてきました。例祭六月二十三日別称筍祭の真っ最中でした。