昨日、不思議な夢を見た…。47
木立を縫って五月のみどりの風がわたってくる。その風はなんと快く人の心に安らぎを与えてくれるものなのか。草木は息を吹き返したように芽を出し新緑の葉を広げお日様の恵みをいっぱいに受けつぼみを付け花びらを開こうかと準備している。五月の季節の戸惑いが時に滋雨を振らせてその成長を励ましている。我が家の草花は満開乱舞の様相を見せている。名も知らぬ草花に「ありがとう」と声をかける。その言葉は肥しのように感じて一層花を美しく着飾らうとする。バラが今開こうとしている、アジサイも準備が出来たと言っているようだ。
最近の母の日にはカーネエションよりアジサイを贈る人が多くなっている。家人はカーネェションを貰って飾っている。
母に感謝する息子たちの志である。
花の命は短いが、次の年のこの季節を知っていてまた新しい芽を出し花をつける。
私は物語を書いていて人間を省察するとき果たして人間は何時花を咲かすのかと思う。人間が何時か、最近不確かだが老いていく中で今花を咲かしていると感じている。若い人はその若さで美しく、歳を取る過程でもみんなそれぞれの美しさを見るのだ。が、人生の終焉期に開く花は、生きて感じた知恵を持っているだけにより美しいと感じるようになった。
今の世界の老人はいかに美しく老いるのかを考えて生きてほしいと思っている。これはもう迷うことなく生きることだ。考えて生きることで答えを出すべきなのだ。
今どのように生きるかを花にたとえると散る時を感じて生きることだ。
歳を取ることは欲心を棄てることなのだ。澄んだ心で生きることなのだ。
これは花に学ばなくてはと思う。咲いて散り枯れていく、その姿を私は好きなのだ。もののあわれにこそ美しさがある。
これは私の美学であり概念であるので納得する必要はない。
残りの生き方の中であとひと花、などと考えることもいらない、自然体で過ごし出来れば、人のためになることが必要とされていれば完璧である。
年寄りには玩具がいる。「麗老」という作品の中で若い頃から定年退職したら読もうと5千冊を買いそろえた男を書いたが、その本の背表紙を見ているだけでも心が持たされ豪快ではないか。また、保育園、幼稚園の子供たちの中に入ってその無邪気さを生きがいにすることも心を開放することで生きている実感を持つことが出来よう。
定年退職をした一人の男がそのあとの人生をどの様に生きるのかを書いた。
この作品も出版する中に入れた。現代の高齢者の問題としてのメッセージとした。
今、緑の若葉とみどりの風の中で大きく胸を張って深呼吸をしている。
今年の春は昼は暑く夜になると冷え込んでくる。花も戸惑っていることだろう。春を告げる鶯もカッコウも・・・。だが、毎日名も知らぬ花の姿に勇気付けられ生きる力を戴いている。
「あなたに差し上げられるものは、五月のみどりの風とあなたを愛するこころだけです」
イギリスの作家、クローニンが書いた言葉が思い浮かぶのだ。スコットランドの五月の自然の営みから生まれたものだろう。
春は私の持病、自律神経失調症が気圧の変化に糾合して私の体を狂わせる時期でもある。長い付き合いでも耐えられない苦しみがある。
が、夢を見ることにしている。夢は決して成就するものではなく、心の滋養なのだ…。