昨日、不思議な夢を見た…。50
梅雨が近づいていることを実感している。空気が肌にしっとりと絡んで来るように思える。私の様な自律神経失調症を持っている人間には気圧が微妙に体に変化を与えてくるので分かることも多い。頭は無論、目がしょぼしょぼし、息苦しく、手足は冷たくなり、心臓は不整脈を起こし、便秘になり、脚も浮腫こともあり、気圧の変化で症状が出るところが異なる。これは若い頃、突然発病した。
倉敷の青年たちに演劇を教えていた倉敷演劇研究会の台本を書いて面倒をみ、岡山県青年祭に出場させ、最優秀賞を取り、全国青年大会の会場の東京に行くときにそれは起こった
東京駅の階段で息が切れて動けなくなった。宿舎は渋谷区の神宮前のオリンピックセンターだったが青年の介護でようやくたどり着けた。そこの診療所に行くと風邪です薬をくれて飲んでも症状は一向に良くならない、演劇発表の場の目黒公会堂の近くの医院に飛び込んだが、風邪という診断だった。当時はまだ精神的疾患に対してはわからないことが多かったのだった。まだ心療内科などというものがなかった時代であった。
岡山県の代表として最高の舞台を涙を流しながら見ていた。
最優秀舞台美術賞、優秀演技賞、脚本賞は岡山でもらっていたが、その賞に見事輝いた。
が、私は名前のない傷病に苦しんでいたが青年たちに賛辞を惜しまない言葉を伝えた。宿舎に凱旋して私は最初に胴上げをされた。宙を廻っていた、頭はとっくに宙を回っていたのだが。
そんな青年たちの努力に報いる為にアイスノンを頭に巻いて4作台本を書き全国大会へ出場させた。
その時の夢をよく見るようになっている。小説を書きながらの台本の執筆であった。その頃は懸賞小説に応募していた時期でもあった。太宰治賞は宮本輝氏の「泥の河」に敗れ、オール読物新人賞は志茂田景樹氏に持っていかれていたが私にはそれより得難い青年たちの心意気を受け取っていた。
このころから公演台本を書くことになる。岡山の演劇のエポックリーダーとして青年とともにあった。
今でもその当時の今は60歳を過ぎた昔の青年から賀状をいただいている。
演劇の御蔭で全国の演劇人との交流によってその世界に浸ることになる。
60歳で演劇を棄てるまでその中で生きてきた。
私の足跡は、日本演劇協議会によって戯曲は百数作羅列され、公演の映像は文化庁の要請により早稲田大学が保存してくれている。
若かったころの足跡はそこにある。
これらは若き日の夢なのかもしれないと思う…。嫌、残がいなのかもしれない…。
今、遺書のつもりで書いたものが出版されるということは夢の続きなのかもしれない…。
全て突然衝突をして始まるものかもしれない…。
だが、一つだけ言える、その偶然の衝突が無かったら人生は味気なく過ぎていったことだろうと…。
夢はただ夢でしかないという人がいる。そんなつまらない生き方をしたのですか、と…。
50回でひとまず終わりたいと思います。読んでくださった皆さんありがとうございました。
「いつか何処かで…」はこれから暇を見つけて書き込む予定です。よかったそこでお目にかかりましょう…。