裁判員制度をもっとオープンにしたらどうだろうか
ヒエラルキー構造社会の崩壊の一つとして裁判員制度をそう捉えることも出来る。今ひとつ国民を巻き込む改革?には理解できないが、直接民主主義への道であると考えるならば、もっと徹底的に国民にオープンにしたらいいと思う。今の話は中途半端だ。これからのITネット社会では情報をオープンにして投票制にしてみたら結構それなりのその時代にマッチした判決に集約されるのではないだろうか。個人名や顔写真を出さないで、事実だけをホームページに公開し皆で議論するのだ。何万人規模になれば、数人の裁判員によるよりもマトモな判決が出せると思う。ネット上であれば自由に意見が言えるし、他の裁判員や裁判官、検察官などの顔色をみたり、被告人や被害者、弁護人などの顔色に左右されず、余計なことに気をつかわなくなるので素直な判決になっていくと思う。人間ていうのは結構感情に左右されるものだし、数人の裁判員だと自分だけ人と違う意見は言いにくい、というようなこともある。特に日本ではその傾向が強いのだから、もともと裁判員は無理なのだと思う。同じような話として、良かれと思って実施された臓器移植における脳死問題もそうだが、もともと日本人の感性にはそぐわないのだ。以上の様な少しと突拍子も無い考え方も含めて議論していくことがこれからの時代には必要ではないかと思う。全うな考え方をした結論が先にあって、それを正当化するための議論であってはならない。それは時間の浪費だ。今日の時代はもっと早くダイナミックに動いており、先取りをしていかねば無用の長物になりかねない。そういう意味で世の中がどういう方向に向かっているかを常に考え、実行しながら試行錯誤を繰り返し柔軟な対応をしていくことが必要だ。実際、そういうことが出来る社会システムになっていくだろう。グーグルは我々に久しぶりに感動を与えてくれそうだ。イチローや荒川静香のような爽快感を伴って。