*ハイネは詩人としか思っていなかったのですが...*
ハイネは詩人としか思っていなかったのですが、調べたらもっと広範囲な人だった。今年は没後150年になるので調べたのですが。(もっと前の人かと思っていました。)彼の最晩年の9年間は,脊椎カリエスのため、寝床から離れられなかったのですね。ドイツの著名な詩人、作家、ジャーナリスト、思想家でもあったのでした。ハインリッヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, フランス語の発音はアンリ・エーヌ1797年12月13日 -1856年2月17日)もともとユダヤ教徒だったのですね。「ローレライ」の詩もハイネの作。「ローレライ」とは、妖精の岩という意味だそうです。本になっている代表作は「ドイツ=冬物語」「ハイネ愛の詩集」「歌の木(上)(下) 」ハイネは「書物を焼く国は、やがてその国民も焼くであろう」と述べていたが、ナチス政権時代にはハイネの作品が実際に燃やされた。「宗教は阿片だ」発言。1840年の著作『ルートヴィヒ・ベルネ』中に「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」とあり、後にカール・マルクスの著作に影響を与えた。1819年ボンで法律を学び、1821年~23年ベルリンで法律、哲学(ヘーゲルのもとで)、文学を学ぶ。ゲーテと会い、共同編集者となる。ゲーテの死とともに古い〈芸術の時代〉の終焉と,新しい〈行為の時代〉の到来を確信し,青年ドイツ派に親近感を持つようになった。先年出版した『旅の絵本』などの辛辣な論評で、ドイツ政府から追求される事となったため,1831年,憧れのパリに移住することになった。(別の説では、フランスで起こった7月革命を聞き1831年以降パリに定住ともある。)1835年連邦議会により全著書の発禁処分を受ける。1840年フランス女性マチルデと結婚。1844年カールマルクスを知る。パリではユゴー、ベルネ、サンド、バルザック等と交遊。 サン・シモン主義の仲間となる。”アルゲマイネ ツアイトゥング”紙の通信員としてドイツとフランスの仲介者の役割を果たした。そのさい書かれたものが,のちに『ロマン派』といわれるこの作風は今世紀にいたるまでドイツ-ジャーナリズムに大きな影響を与えた。1843年,ハイネは『アッタ=トロル,夏の夜の夢』1844年には『ドイツ=冬物語』において,ドイツの弱点を痛烈な風刺で嘲笑的に表現した。11844年にはプロイセン政府から逮捕命令まで出る。1848年以後脊髄疾患で病臥、詩作を続け、共産主義の勝利を確信しながら1856年他界。モンマルトルに葬られる。 ロマン主義の完成者。1844年までに作られた叙情詩は同年に『新詩集』にまとめて出版された。韻律,ことばの心地よい響き,情緒の素朴さなどによって彼の詩は,ゲーテ以降19世紀詩人のなかでは最も愛読されることになった。かなり硬い内容になってしまった。私としてはハイネ作だと思っている一編の詩が好きだからそれを調べたかっただけだったのだけど、出てこなかった。こんなので始まる詩です。 波がキラキラ漂えば、春の心に そぞろ恋千夜千冊 松岡正剛の千夜千冊の第二百六十八夜【0268】2001年4月11日のところにこのようにありました。 ぼくにとって、ハイネはまだ謎の中にいる。 たとえばハイネはどう見てもニーチェをはるかに先行していた世界分析者であったが、なぜハイネがそこまで到達できたのかはぼくにはわかっていない。 また、ハイネはイプセンやトーマス・マンをぞんぶんに先取りしていたが、そのようにハイネが天才的な文章力を発揮できた理由が見えてこない。さらにハイネはマルクスの思想やマルクスのドイツ論とかなり重なるものをもっていたが、そのようなハイネをハイネ自身が脱出していった明確な理由も見えてはこない。 いろいろ覗いていて驚いたのだが、明治期にハイネを訳したり、論じた者たちの数はものすごく多いのだ。森鴎外・尾上柴舟・上田敏・生田春月は訳し、田岡嶺雲・高山樗牛・生田長江・橋本青雨・佐藤春夫らはハイネに突入していった。ハインリッヒ・ハイネ。ここには革命と愛と祖国愛をめぐる最も濃厚な矛盾が蟠ったようだ。参考¶今日の翻訳レベルでハイネを読むなら井上正蔵訳の『ハイネ全詩集』全5巻(角川書店)がいい。↑「ココクリック」PCを持っている全ての人が毎日一円のクリックをするだけで、すごい額の寄付ができるよ!