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カテゴリ:映画・TV
先日、『クレヨンしんちゃん』の作者、臼井儀人さんがお亡くなりになりました。
クレヨンしんちゃんは大好きで、シティーハンター冴羽りょう同様に兄弟、同士、アミーゴと思っているお気に入りキャラで、実際に臼井儀人さんには、偶然に臼井さんの友人の結婚式の二次会を自分の働くお店でやって頂いたことがあって、その際に臼井さんと握手もしてもらいました。 (「レクイエム」とは、カトリック教会の死者の安息を神に願うことを意味する。 今回のブログで、氷上ネタをお待ち?の方にも、自分の死というものの概念が伝わればと思います。) 実は偶然ですが、アニメ『クレヨンしんちゃん』でしんちゃんが通う幼稚園のヤクザ風の強面の心優しい園長、通称「組長(先生)」(声は納谷六朗さん、兄の納谷悟朗さんは銭形警部の声の人)が趣味の写真を撮る回を見たことがあったのですが、組長先生のあのうんちくの数々は、臼井さん御自身のうんちくだったんでしょうね・・・ (そういえば、しんちゃんの独身のおばさんのむさえちゃんも写真家志望でしたね) 最後に撮影されていた画像は崖の下を覗き込むように撮影されたものであることから、写真を撮ることに夢中になるあまり誤って転落したのではないかとも報じられました。 しんちゃんは美人の「おねいさん」が大好き、理屈抜きにがむしゃらにナンパをする。 そんな好きなものに夢中になる姿は、臼井さん御自身の姿をしんちゃんのナンパ癖になぞらえていたのかもしれません。 死とは何か、ドラマ「スクールウォーズ」こんなセリフがあります。 賢治「イソップ。俺は人間の生き死にについて、ラグビーを基準にしてしか考えられん。いいか、このボールがお前の魂、お前の命だとする。座るんだ。いいか、このボールがこの線の内側にあるときボールは生きてるな。つまり生の世界だ。こっち側は死の世界だ。この線は生と死の境目ってわけだ」 イソップ「先生、何が言いたいんですか?」 賢治「人間は死なないってことをだ。死ぬにしてもほんの一瞬の間だって言うことだ。死ぬってのはな、ボールがこう、この線を越えるようなほんの僅かな間のことだ(略)」 つまり、現世の生身の体から魂が、人々の記憶という心の中に移って、想人という心理によって永遠の生命として生き続ける、その魂の移動の事を「死」という動作であるということ。 このドラマ「スクールウォーズ」でも登場人物のイソップは死んだ後も皆の心、特に無二の親友の大木の心の中で強く生き続ける、まるで二人三脚のようにイソップと大木が合わさって新しい人間が誕生したかように、ラグビーで言い換えれば16人目の選手のように・・・ 臼井さんの生身の体はもう動くことはない、しかし臼井さんの御家族や友人知人、そして臼井さんの作品に親しみを抱く全ての人の記憶という心の中に移って、想人という心理によって永遠の生命として生き続けるに違いないと思います。 なぜなら、上記のように臼井さんは作品の中に自分自身を出し尽くしている。 そして臼井さんの作品に親しみを抱く全ての人は、そんな素晴らしい作品に出会えた事を臼井さんに感謝し、臼井さんに自分を信じる力を与え、さらに臼井さん本人と作品に磨きがかかり、それは臼井さんからのファンへの感謝となり、感謝という心の循環の大きな円を創りだしたから! 今一度、『クレヨンしんちゃん』の臼井儀人さんは、臼井さんを愛する人々の想人という心理の中で永遠の生命をとして生き続けている (あとがき) まさに人が生きるとは、自分自身と闘い、自分を出し尽くす、そんな中で感謝し想い合うとういう想人という愛が、信じられる自分自身を創り、さらに新しい自分自身との闘いを生む・・・ そんな生き様があってこそ、人は現世の生身の体から魂が記憶という心の中に移って、想人という心理によって永遠の生命として生き続けることが出来るのだろう。 「レクイエム」、カトリック教会の死者の安息を神に願う行為、 そして「死」という動作は、現世の生身の体から魂が、人々の記憶という心の中に移って、想人という心理によって永遠の生命として生き続ける、その魂の移動の事 カミーユ・サン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』のオルガンとは教会のパイプオルガンをさす。 舞姫が『オルガン付き』を舞った時、いつかこの「死」という魂の移動を表現して欲しいと思った、いや、選ばれし運命を辿るような舞姫ならきっとそのようなテーマに基づいた衝撃的な舞が出来ると思った。 そんな中で、パイプオルガンが繰り出す神聖な曲、そしてまた「死」の先にある想人(永遠の生命)を表現する神秘的な曲が思い浮かんだ。 その二つのタイプがあわさったような「レクイエム」、始めてこのプログラムを見た時に、自分と同じような事を舞姫に望む人がいるのか?とただただ驚いた・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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