テーマ:たわごと(26892)
カテゴリ:戦国
Jyasminteaさんより、浅井長政が織田信長を裏切った理由は?という事について、書き込みがあって、なかなか考えてみるのが面白そうだなという事で、書いてみた。
先ずは、浅井家について、簡単に説明しておく。浅井家を表舞台に登らせたのが、長政の祖父にあたる浅井亮政が元々北近江(現在の滋賀県北部)の領主であった京極家の跡目争いに乗じ、反旗を翻した事により独立を勝ち得た事による。この際に、隣国越前(現在の福井県)の朝倉家の援助協力があったのが浅井と朝倉の縁である。しかし、浅井亮政の後を継いだ浅井久政は、南近江の領主六角家に追い込まれ、息子を六角家に人質にして、実質的に傘下とならざるを得なかった。この間も朝倉家との友好は続いてはいる。この息子が後の浅井長政だが、この時は、六角家当主の六角義賢から一時拝領し、賢政と名乗っていた。後に、久政の政策に不満を持つ家臣主導により、久政は隠居し、1560年家督を若干15歳で長政が相続した。そして、同年の六角家との戦にも勝利し、完全な独立を果たした事により勇名を馳せるのだが、その頃に、六角家の娘と離縁し、名前も長政と変えたようである。1567年には織田家と同盟し、信長の妹お市を娶る。(一説には1568年とも言われる。)そして、信長は長政を非常に気に入っており、重視していたのだが、信長の政策に反抗する朝倉家の対応により、1570年、信長が同盟時に長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、琵琶湖西岸を通過して朝倉家を攻める。長政は旧来からの朝倉家との同盟関係をより重視し、織田徳川軍を背後から急襲する。 これが今回考えたい、『浅井長政の裏切り』である。 この後は、朝倉家との連携での信長との戦、更には将軍家や武田家などと共に信長包囲網を形成するも、家臣団の切り崩しにあい、落城、自害と続くわけである。 ざっと、おさらいしてみた所で、何故長政が裏切ったのかを考えたい。 先ず、良く言われているものとして、上におさらいした内容の通り、今の浅井家があるのは朝倉家の援助による所が大きかったという義理立てが有力説となっている。次に、織田との同盟に元々から反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して浅井に一報を入れなかった事で、隠居中の久政を担ぎ出し、長政に対し織田軍への進撃を提案したと言われているが、浅井家重臣の赤尾清綱、磯野員昌、海北綱親らはこれに反対したともいい、信長への進軍は反信長派の家臣達の暴走という説がある。織田家への進軍部隊には、主力である武将達も参加しておらず長政がいたという記録もないとのことでもある。(Wikipedia参照) 実際、姉川の合戦(織田・徳川軍VS浅井・朝倉軍)で信長に敗れた浅井家は、それから大きく落ち目となり、家臣団の多くも離反している事から、家臣団の掌握が完全ではなかったとの見方も出来るし、もっと言えば、久政隠居の流れを推測しても、家臣団の意見は浅井家を大きく変えるだけの力があったとも思える。これらをふまえると、家臣団の暴発という見方は十分解釈できると言える。元々、浅井家は京極家の家臣であり、それが下克上で上に立っただけで、何処か浅井家だけがその家臣らと特段の差にあったようにも思えず、言ってみれば、北近江土豪連合体とでも言っていいようなスタイルだったのかとすら考えてしまう。それでも、頭にたったのが亮政という事で旗頭は浅井家に収まったというようにも解釈出来る気もする。こう考えると、仮に裏切らず、信長との同盟関係が維持されていたとしても、家中の結束の厚い徳川家程有用に機能したのかどうかは未知数であるという部分も大きく感じられる。その従順な徳川家に信長は、自らの娘を嫁した信康と家康の妻を殺害させてる訳で、それでも織田家に家康が追従した事を加えても、浅井家臣団は約束(朝倉家への不戦条約を)を勝手に反故にしてしまう信長という男を信じられないというのが強かったのではなかろうか。創作物では、長政を信長は認めていたらこそ、美しく大事にしていた妹のお市を嫁にやったという解釈が多いが、それでも幼少期の縁があるとされる家康にすら子を殺せという信長のことだし、どんなオーダーを長政にその後したのかは全く未知数である。そう考えたならば、このタイミング以外でも、浅井家臣団が暴発した可能性も多くありえるし、少なくとも信長という新興勢力と結び、領土欲をもっていた野望旺盛と俺は見ている長政ならば、武田家との連合も視野に入れた、新たなる三好長慶的な立場(京に近い大名であり、将軍体制を維持しつつも管領ではなく自らが執権となった。)を得たいと考えても、おかしくはないだろう。 まぁ、かなりバリエーションが膨らんでしまうIFではあるが、俺の結論としては、隠居した久政には、立場はなく、それよりも信長への不信感を募らせた家臣団が頼るべきが朝倉家しかいなかった事による裏切りという所に収まった。そして、仮にこのタイミングで裏切って無くても、長政のような文武両道な武将であれば、光秀らと結託して信長を討った可能性すら出てくるような気もしてきたし、逆に信長の片腕の一人として、近畿管領軍の総司令官的な役回りが彼にあり、光秀は細川家と同じような安定したポジションを得た感じもするという錯綜状態に陥りました(笑) ここまで読んで頂き感謝です。面白かったとか好印象であれば、ここをクリックしてランキングUPにご協力下さいませ~♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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