テーマ:世界史・日本史(7)
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伊予松山に六つの小学校が出来た。
中学から大学予備門までずっと同学だった正岡子規は秋山真之よりも一つ上。末広学校に通っていた。 この当時の子規は 「まだまげを結っていた」(柳原極堂:書)(※1) 祖父が大の西洋嫌いで儒学者であったため初孫の子規もまげを切らさず、外出時には脇差しを帯びさせた。 当時のあだ名は「まげ升さん(子規の幼名)」 わんぱく者の真之に対し、子規は幼少の頃は非常に臆病者であった。能を見に行っても「こわいこわい」と泣き出すし、「塀の上から下女が顔を出していた」といっては泣き出す始末。病的なほどに豊富な創造力が途方もない想像を脳裏に描かせているようであった。 明治12年、真之と子規は県立松山中学校(現在:松山東高校)に入学。この頃の授業は6科目。 漢文、英語、数学、理科、図画、体操 当時の日本を風靡しているのは「旧弊打破」であり、この中に国語も含められていた。しかしその後、追加されるようになる。国語や社会がないというのも不思議な時代である。この当時の三本柱は 英語、数学、漢文 だったらしい。 しかしながら英語教育については 「じつに不思議な英語だった」と彼らは言う。 先生は松山弁で発音した。 シー、ジー、ムーン (月を見よ)??? See the moon 先生も朗読していて意味が解らないところが多々あり、 「このところ、不可解なり」 と飛ばしてしまう。まあ、のどかな時代である。(笑) このころの子規のあだ名は「青びょうたん」。子供の頃から子規は体の強い子ではなかったようだ。しかしながら、なにごとにも提案好きで、大将になることが好きであった。 「秋山、あしの家に遊びに来んかな」 中学3年の夏である。この頃から二人の関係が親密になっていく。 呼ばれた真之が子規の家である物を見つける。 「これはなんじゃ?」 「あしが作った新聞じゃが」子規は恥ずかしそうに答えた。 2年の頃から仲間を呼び寄せて近所のニュースを集めては編集長気取りで新聞を作っていたらしい。しかし新聞は2,3号で潰れてしまった。 このあと「桜亭雑誌」(※2)というものを始めたらしい。これに真之も加えるのがこの日の目的だった。 当時の真之はわんぱく大将なので興味を示したものの、子規の雑誌に入ればあごで使われねばならない。真之は言下に断った。 この辺からお互いの関係がはっきりしていくのである。妙に惹き付け合う関係が始まる。子規は真之を後年、「わが剛友 秋山真之」と称している。 子規はその発想が突拍子もなく、いきなり机を叩き真之に説教をたれた・・・ 「やっぱり、英語じゃ!英語をしっかり学ばんけりゃならん!」と言い出す。 真之は吹き出しそうになった。 英語が出来るのは真之で、子規は格段に英語が出来なかった。 「英語がでけん!でけんのは、松山中学の英語があしに受け付けんのじゃ!」 勝手な言い分だが、ようは東京に出たいという気持ちが子規には強かった。後に真之もこれに感化され、無性に東京行きを希望するのである。 明治16年、子規は中学を中退し東京へ行くことになった。叔父の家を訪ねていくことになったのである。 東京に着いた子規は当時の銀座をこう評している。 「東京はこんなにきたなき所かと思えり」 当時の銀座はもっとも汚い場所だったらしい。 大学予備門にに入学するために予備校に行かねばならない。叔父は陸羯南(くが・かつなん)(※3)を紹介された。この子規にとり、生涯の理解者との初めての対面であった。 ======================================= ●注釈の補足説明● ※1 柳原極堂 俳句雑誌「ほととぎす」を創刊。 子規と同級で松山中学に進む。共に中学を中退し、東京の共立学校(今の開成中学)に入学。「ほととぎす」は高浜虚子に受け継いだ。 ※2 桜亭雑誌 明治12年、子規が始めた作った回覧誌。他に「松山雑誌」も出す。子供の頃の同人誌みたいなものか。 ※3 陸羯南(くが かつなん) 明治中期の新聞記者、政論家 日刊新聞「日本」の社長兼主筆。子規もこの「日本」の記事執筆で生計を立てていた。彼は徳富蘇峰・朝日奈知泉らとともに言論界の代表であった。すなわち,国民精神の昂揚につとめ,官僚主義と藩閥政府の専制を攻撃する彼の社説・評論は論旨明快,多くの読者の支持を得た。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004年10月11日 14時39分17秒
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