テーマ:愛しき人へ(903)
カテゴリ:思うこと
あれから20年が経ちました。 毎年この日はブログで伝えてきましたが、2011年で途絶えていましたね。自分の中で少し風化していたのかと思い、再度お伝えしようと思います。 1995年(平成7年)1月17日AM5時46分 被災された方はこの日時は忘れないと思います。私は当時大阪・千里丘に住んでいましたので大きな被災はしませんでした。でもマンションの階段は大きくひび割れし、ベッドの枕元に本棚を配置していたので頭の上にデジカメが落ちてきて危うく怪我をするところでした。下から突き上げる激震で体が宙に浮いた記憶があります。 東京出身の私は地震には慣れていましたが、それでも経験のしたことがない激震だったのですぐ窓やドアを開けて逃げ口を確保しました。それからテレビをつけたのですがこれといった報道はなかったんです。ですので少し安心してしまいました。当時は携帯はごく一部の人しか持っていません。インターネットって「なあに?」という時代でした。 実家(東京)に電話をしたらその時は繋がりました。 母親「なあに?」 ゼロマ「大きな地震があったけど大丈夫だから」 母親「あ、そう。こっちは弟の弁当を作ってるから忙しいから切るね。ガチャ」 当然ながら東京ではこの地震が判るはずもないわけで、村山首相も官邸で朝食会してたんですよね。 朝7時になって会社に行けるのか最寄りの駅に行きましたが、電車が動いていません。同じマンションの同僚と駅前の喫茶店で電車が動くのを待ちます。会社に連絡を入れても電話はつながりません。モーニングを食べながら10時くらい居たでしょうか。ラジオからニュースが聞こえてきました。 「阪神高速道路が落ちました」 その時は意味が全く分かりませんでした。高速道路から「何かが落ちたのかな?」と思っていたほどです。まさか高速道路が倒れているなんて、、、あとからわかる話です。 デマも流れていました。 「淀川の橋が落ちたらしい」 そんなデマも流れていたので、「あー会社行かなくていいや!」くらいに考えていました。 そして会社に近くに住む人が数名出社して電話番になってくれたので、繋がりにくい電話でしたが連絡が付きました。とりあえず今日は「出社せず自宅待機。無理せず会社に来なくていい」とのこと。「やった!会社休みだー」と同僚と喜んで近くのデニーズでランチ。 そこのテレビで見た光景は… 阪神高速道路が倒れて横たわっていました。。。 そこで事の重大さを知ったわけです。自身の中心は神戸・淡路だと。 そこで気になったのは当時付き合っていた彼女。東灘区の御影に一人暮らしです。でも当時は連絡の手段が家の電話しかなかったんです。電話か手紙か直接会うかしか連絡の手段はなかったので心配でした。 実家(東京)では父親が何度も電話をしてきたそうですが、もうつながらなくなっており、母親にすぐ電話を切ったことを激昂して夫婦げんかになっていたそうです。電話が通じたのも翌日だった気がします。 その後の被害状況は皆さんもご存知の通り。未曽有の震災であることが徐々に判明していきます。
出社して神戸と大阪は電車も寸断して行き来できない日が続き、限られた道路を使って 何時間もかけて一部の人間がいけるほど。大阪や京都の人間は神戸で何が起きているのか詳細が判りません。震災から1週間ほどで阪神電車が青木駅までつながり、そこからバスで三宮まで行けるようになりましたが、それでも片道3~5時間くらいは掛かりました。神戸の社員は出社できないので大阪や京都の社員が交代で神戸に訪問して、お客様の被災状況を調査することになりました。その時の写真が以下の5枚です。 場所は神戸市長田区 この5枚は同じ地点で360度をパノラマで撮影したものです。 火災で丸焦げ状態でどこにお客様の会社があったのかも判りません。。。 あまりの光景に立ち尽くしていた記憶があります。
大阪から行くのも大変でした。 早朝から阪神電車で青木駅(のちに御影駅)まで行くのに電車が少ないので何時間。そこからバスを待つのですが長蛇の列で2~3時間待ち。ゆっくり走るので三宮まで1時間弱。三宮の仮設事務所でスーパーカブに乗り換えて、隆起してぼこぼこの道路を走りながら神戸の街を巡回しました。15時には帰宅しないと帰れないので神戸に居られるのは数時間。そんなことを交代で何度か行っていました。 帰りに三宮から彼女の家の御影までは歩いていきました。 そこには古いマンションが崩れており、見る影もない状態でした。本人はどこ非難したのか?実家(鳥取) にでも非難しているのか全く分かりません。
会社から初めて携帯電話を貸与されたのはこの時でした。 「どうやって使うんだ?」 どうやって受話器を上げるのか?テンキーを押しても電話が掛からない。通話ボタンを押すことを知りません。通話が終わったら 「どうやって電話を切るんだ?」 終了ボタンを押すことを知らないわけです。そんな時代でしたね。
テレビで「インターネットで神戸の状況を発信している人が居ます」とのニュースが。 その意味が全く分かりません。「インターネット?」電話がつながらないのにどうやって「パソコン通信が出来るんだ?」という程度の知識です。当時のブラウザは英語のみでしたから英語のできる人しかブラウザは使えなかったはずです。
そして彼女の消息がつかめたのは、今では考えられないですが3か月後の4月。 知人が彼女の妹を知っていたので、その妹から伝えてもらいました。彼女は帰らぬ人になっていました。不思議なもので3か月もたち、6000名以上の方が犠牲になった震災の全貌が判った後だと悲しみがすぐに伝わってこず、あとから事態を受け入れるのには時間がかかりました。人とはそういうものなのでしょうか。
あれから20年。 長田の街も震災の爪あともなく復旧してきれいな街になりました。 あの時のあの光景、あの思い、風化させてはいけないなと思いまた書き残してみました。これは私にとっての備忘録です。
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