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カテゴリ:観光
「昔は坑道を歩いて通っていた。坑道を抜けてからはバスで学校へ行った」と語っていましたが、
ここは今でもバスが走れないような細い道が続き、 現在も三ツ矢沢の小中学生はタクシーで尾去沢小学校や中学校へ通学しています。 この日もジャンボタクシーで、尾去沢鉱山から次の目的地である三ツ矢沢集落へ向かいます。 ここは藩境。 鹿角は今では秋田ですが、かつて南部藩でした。 今は、この地点から数メートル先に秋田県大館市との市境がありますが、 昔はこの道路を挟んで両脇の山に「藩境塚」が建っていて、 その塚と塚とを結んだ線が藩境の線だったのだとか。 ちなみにその塚は現存しているようです。 分水嶺はもっと鉱山側(南部藩より)にあるため、 本来であれば鉱山のある山辺りに藩境が設けられてしかるべきだったのが、 南部藩が鉱山を持っていたものだから、境界が大館市側(秋田藩より)にずれ込みました。 秋田藩としてはその鉱山が欲しくてたまらず、 この辺りでは境界をめぐる争いが絶えなかったのだそうです。 この丘の上に昔の南部藩側の陣屋があったと伝えられています。 この語り部のおじいさんが幼い頃、ここの場所の事を「タテ」と呼んでいたようなのですが、 それは今から考えれば「館」に由来していると思うと語っていました。 この前を走る県道は、その争いのためか整備されるのが遅く、 大館市側からの車道は近年になるまで出来なかったのだとか。 (つまり、道があると攻め込まれるとの考えから) 三ツ矢沢の「下新田(しもしんでん)」という集落から小路へ入り 今度は「中新田(なかしんでん)」という集落へ向かいます。 この丘がかつて三ツ矢沢小学校があったとされる跡地です。 今藁が架かっている辺りが校舎、手前の田んぼがグラウンドだったそうです。 昭和47年(1972)7月23日に三ツ矢沢校舎廃校式があるまで、ここに学校があったなんて想像もできません。 この藪の辺りは、校長先生の住宅があったそうです。 ちなみに他の教員は、この集落の住宅に下宿していました。 このコンクリートの枠はプールの跡!! 今ではその歴史を刻んだ碑が建つのみ。 もっと奥まで進むとこんな立て看板が。 今回のイベントのために建てたのかな? さらに進んで、いかに昔のこの地区の小学生が過酷な通学をしていたのか思い知る事となります… 大きな車はここまでしか入れません。(四駆ならまだ先まで行けるっぽい) ここからみんなで歩き、田郡(たごおり)という失われた集落を目指します。 (ちなみに中新田から田郡まので間には「上新田(かみしんでん)」という集落がありますが、そこも今では誰も住んでいません。) 県庁の広報の方も同行したのですが、 その方が「なぜか瀬戸物の欠片がたくさん落ちている」と言っていたので探してみます。 確かに随所に落ちています。 昔の生活の名残? 急な坂に差し掛かりました。 登りきるとそこにはコンクリートの崩れた施設跡。 これはかつての「共同風呂」の跡地。 コンクリート製のタンクが2つ見えますが、 これは近年になってできた、鉱山の有害な排水を再び坑道内に戻す設備なのだそうです。 その間に見えるのは… コンクリートで塞がれた穴。 これがなんと鉱山へつながる道!! 数年前まではまだ入れたようですが、 危険なので最近塞がれたとか。 崩れた穴から坑道の内部を覗き見ることができます。 昔の中学生は、この山道を登り、このトンネルを抜け、鉱山の坑道を通って山を越え 山の向こうの中学校まで通っていたようなのです。 で、戻って来た時は、そのままここの共同風呂に入って自宅へ帰った、と。 この辺りは昔はそれなりに栄えており 写真の場所にも住宅が数件あったようです。 今でこそ辺鄙な場所のように思えますが、 鉱山が出来てから最初に栄えた場所がこの辺りからだったようで、 昔はそれはそれで、とても便利な場所だったんでしょうね… お風呂の前には集会所みたいな施設があって、そこで撮影された風景。 右上側に向かって轍が伸びていますが、この上にも住居が、 さらに上には神社が。 (今回は神社方面へは行きませんでした) Canon PowerShot G11 その7へつづく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.10.20 08:13:33
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