ルーティンを貫くこと
本日の都立高校発表を持って、うちの入試戦線は全て終了しました全員第一志望に合格してくれて、本当にホッとしました。生徒たちのがんばりをたたえたいと思います。今年は特にそうだったと思うが、最後まで実に淡々とやっていたなあと言うのが印象。入試前日まで普通に勉強して、まあ最後の夜は少し早めに帰っては行ったが、特に気負うこともなく、淡々とその日を迎えた。これは自分の性格でもあるが、ここぞと言うときに気合いを入れるとか、激励をされるとかが苦手だ。よくテレビで映し出される、中学入試当日などに有名校の前で先生たちが激励している様子。受験生たちは先生と一人一人握手を交わしながら会場に入っていく。あの姿を私は正視できない別に批判ではない。送り出す先生たちの気持ちは本当によくわかる。でも、もし私が受験生だったら、アレで相当にプレッシャーを感じてしまうのは事実。だから、生徒たちに特別に激励などはしない。自分が苦手なことは基本的にやらない(まあ私が出来るのは、校門前でこっそり見守り、生徒たちが無事に学校に入っていくのを見るだけ。影で頑張ってくれと祈るだけ。まるでストーカーみたいだけど(笑)。そもそもやってないが・・・)確かに、少しでも頑張って高見を目指してもらいたい気持ちはある。しかし、それに向けて無理強いまではできない。入試は大きな関門ではあるが、あくまでも日常の勉強の延長線にあると思っている。関門を越えるために、必要以上に無理をするとその反動が必ず来る。そういう悲劇を時々聞く。関門を越えるために、少しくらいの負荷はかけるがそれ以上はかけない。送り出す私にとっては、合格は大事だし、ゴールのようにすら見えてしまう。しかしそれは生徒たちにとってのゴールではない。むしろ合格してからの方がはるかに大事だ。いたずらにあおって消耗させてしまってはいけないんだと思う。努力は大事だ。少しでも高見は目指してほしい問題は、その努力させる方法。現状を見据えて、出来るところからしたたかに手を打っていく。目標に現状をあわせるのではないのだ現状に目標をあわせるのだ。一見すると手抜きに見えるがそうではない。どこに視点を据えるかの違いだけだ。現状を見据えて本人に目標を考えさせるこども達はみな、真剣に考えるものだ。あとは試行錯誤しながら一歩一歩進ませるだけ。地道な毎日があるだけ。確かに目を見張るような成果は出ないかもしれないしかしこども達をいたずらに消耗させることはない。そこには、ゆとり教育で学力低下など関係ない。公立学校の信頼低下など関係ない。底の浅い情報に振り回されて不安になることもない。子供には等しく、よりよく生きようという力はある。それがいつ発揮されるのか? 発揮のされ方がどうなのかが違うだけだ。そこに世間一般の、特に有名校に進学できるか否かの尺度を当てて優劣を競ってもあまり意味がない。人間の一生は、学校出てからの方がはるかに長い。出身校や、成績で人間の価値が決まるわけではないそんなことわかっているはずなのに、それ以外の尺度がはっきりしていないこのジレンマ。私は、自分の現場で答えを出していきたいと思っている。とにかく大事なことは、ルーティンをどれだけ貫けるか?そのルーティンの質を日ごろの活動で少しでも高めるように努力する。その延長に、入試などの関門がある。陸上競技のハードル競争のように、出来るだけ縦移動が少なく、スムーズに横に走っていける、そんな人生が理想的なのかもしれない。