一つの区切りです
本日、うちのお墓の一つを永代供養にしてもらうためにお寺に行った。このお墓は、私の母方の祖父であるが、実は私の母も顔を知らない。私の母が生まれる前に出征し、戦後はシベリアに抑留され、そこで帰国を果たせず、昭和22年に亡くなったとされているからである。36歳だったそうだ。シベリアのどこで亡くなったかは、未だハッキリせず、今も調査中であることが、厚労省のホームページに載っている。おそらく母が遺骨に対面できることはもうないだろう。そう考えると、私の命は、かろうじてつながってきたとも言える。遺骨は当然ないが、お墓は祖父の父母と同じところに入っていて、私も小さいときから、春秋のお彼岸と夏のお盆の、年に3回のお参りを欠かさずやってきた。しかし私の母も70を超え、夏には病気をしたこともあり、そのお墓に参る親族関係もないし、私もおそらく跡継ぎはいないだろうから、そのお寺の檀家からは外れ、永代供養にしてもらった。まだ体力も余力もあるうちにである。儀式は簡単。お墓でお経を上げ、永代供養塔に骨壺を移すだけ。祖父の父母も、私の母が生まれる前にすでに亡くなっているので、顔を知らない人を70年近くお参りし続けていたことになる。だから、ここらが良い潮時だと判断。無縁仏にしてしまうよりはずっと良い。お寺に聞いたら、最近はそういう話が多いそうである。家族も少なくなり、子どもの代にお墓の負担を残すのは忍びないという思いが多いそうである。私自身も、何となく当たり前のように続けていたものが一つなくなるのは、少し寂しい気もするが、それも一つの節目だろう。