学校教育は、なぜいつもうまくいってないと見られるのか?
国家と社会 の違いってわかりますか?同じように見えて、実は全然違うはずなんです国家は、憲法に象徴されるように、この国のあり方が根本それに対して社会は、どちらかというと自然発生的。その中で秩序が作られていく。国家は「理性」で成り立っているとも言えるし、社会は「情」で成り立つとも言える。子供が最初に出会うのは、当然社会。家族から始まって、親戚、近所などの人間関係からいろいろ学ぶ。その上で学齢期になったら学校に入っていく。つまり子供の下敷きは「情」なのである。ところが学校教育は、国家的に行うもの。つまり「理性」が下敷き。情と理性の狭間に子供を立たせるのが学校教育。この間のバランスをとりながらすすめていかねばならないところに、教育の難しさがあるしかし、それが教育の醍醐味でもある。とはいえ、こういうのは教育の当事者でないとなかなか伝わらないことでもある。しかるに現在の学校教育は、ほとんどが理性言い方悪いかもしれないが、頭で考えたことを現場にドンドン落とし込んでいるだけ。うまくいかないように見えるのは当然なのである。そもそもが矛盾しているのだから。それでもなんとか表面上だけでも破綻してないように見えるのは、現場の先生の努力のおかげだと思う。その点についてはもっと評価しても良いんだけどね。なんとか表面上だけでも納めているから、まだできると勘違いしやすいのかもしれない。閑話休題とにかく教育においては、この「情」と「理」のバランスが非常に大事なのである。どこにどの程度比重を置くかは、教育者の考え方次第だし、塾の場合でもこれは同じ。ただ私の場合は、情が根底にある。情の塊である子供と毎日向き合うことだからね。忍耐と寛容が根本にないと成り立たないと思う。生徒もそれを知ってか、うちでは比較的本音が出やすいよう。良い悪いは別。うちはそのやり方。社会(情)が根底にあると、人間の見方が変わってくる。つまり、許せるんですよね。人間の「業」に思いを馳せられる。落語は人間の「業(ごう)」の肯定 と故立川談志師匠がおっしゃっていたが、まさにそれで、そういうゆとりがほしいところなのだが、現状はその逆。建前としての理性が幅をきかせているばかり正論=理性ばかりでは行き詰まってしまう。子供だけではなく、お年寄りなどもそうだが、相対的な弱者に対する寛容さがどうも乏しいような気がする。それが子供の不登校など、あらゆる所に出てきてしまう。もういちど人間の「業」について考えた方が良いんじゃないかな「やっちゃったもんは仕方ねえ、次がんばんな!」という気楽さがどこかにないと、いつまでたっても教育はうまくいかないし、しわ寄せはドンドン現場に行くだけ。そんな気がします。で、それがしたたかに生きる庶民の知恵でもあると思うのです。生き方に悩んだら、落語を聞け ってね^^;平成29年11月27日(月)大田区松栄塾