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テーマ:日本の歴史(53)
カテゴリ:歴史・奈良遷都
旧一万円札に使われた有名な肖像画に描かれた人物、 彼は、本当に聖徳太子なのか?
(4)聖徳太子という人物は実在したのか? 冒頭に掲げた肖像画は、旧一万円札などに使われた有名な「聖徳太子の肖像画」です。1930年の百円紙幣に登場して以来、70余年に渡って日本の最高額の紙幣に使われまして、聖徳太子と云えば、この紙幣に使われた肖像画を思い起す人が多いのではないでしょうか。
この肖像画の正式名称は、「唐本御影(とうほんみえい)」といいます。通説では、向って左側に描かれた人物は、聖徳太子の弟の殖栗皇子(えくりの みこ)、右側は聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と云われていました。
この絵の制作は、8世紀頃、法隆寺に所蔵された経緯は謎に包まれていますが、12世紀には確実に所蔵されていたようです。 1982年、当時の東大史料編纂室長であった今枝愛真氏は、この肖像画が聖徳太子とは関係のない人物ではないかとの説を唱え、話題になりました。 今枝説の主な主張は、 (1) この絵の描かれた年代が、少なくとも太子が死んだ西暦622年よりも100年位後に描かれたものであること、 (2) 描かれた「聖徳太子」の「冠に笏を持った姿」は、飛鳥時代の人物の服装では無く、奈良時代以降のものであること、
の2点です。例え、聖徳太子を描いた絵であったとしても、写真もない時代に、100年後の画家が太子の顔をリアルに描ける訳はないですね。(近代の西郷隆盛でさえ、描かれた肖像画は本人のものではないというのが定説です)
聖徳太子の本名は厩戸(うまやど)、用明天皇の第2皇子なので、厩戸皇子と呼ばれています。「古事記」(712年)では、上宮之厩戸豊聡耳命、「日本書紀」(720年)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されています・。
「太子」とは、古代中国の皇帝の息子もことで、日本においては皇位継承の第1位の皇子を差す名称ですが、単に「太子」といえば、「聖徳太子」を意味する名称です。
「聖徳太子」は死後の諡(おくりな)ですが、この名称が初めて登場するのは、聖徳太子の死の129年後に編纂された日本最初の漢詩集「懐風藻」なのだそうですが、 厩戸皇子=聖徳太子だという確たる証拠はどこにもないそうです。 また、太子は604年に制定したと云われている「十七条憲法」も、「日本書紀」の編纂された時期に創作されたものであるという説が有力なのだそうです。
邪馬台国も未だに「幻」ですが、リュウちゃんにとりましては、「聖徳太子」も未だ「幻の存在」なのです。
(5)法隆寺の象徴の一つである「百済観音」は、何時、何処で造られたのか?
数ある法隆寺の国宝の中で、現在、私達が先ず一番に指を屈するのが「百済観音」だと思います。平成10年に建設された「大宝蔵院」は、「百済観音」を展示する特別な部屋があり、また、平成9年にルーブル美術館で展示公開された時には、「日本のヴィーナス」と絶賛され、30万人もの人を集めたそうです。
仏像には全く門外漢のリュウちゃん、これまで「百済観音」という名称から、てっきり飛鳥時代に朝鮮の百済(346~660年)から渡来したものとばかり考えていましたが、どうもそうではなく、日本で作られたという説が有力なようです。
その主な理由は、この仏像がクスノキの一材から彫り出されたものである点です。クスノキは朝鮮半島には自生していないので、「百済」で制作されたという説は無理があるようです。
「百済観音」が何時、法隆寺に所蔵されたのか?という点も全く謎に包まれています。 法隆寺の根本史料とされている747年の「法隆寺資材帳」には、この仏像の記載が一切無いのだそうです。2mを超える大きな仏像なので、記載漏れということは考えられず、この時点では法隆寺に所蔵されていなかったのは確実です。
百済観音の存在を記載した最古の文献は、何と!法隆寺創建から約1000年を経た元禄11年(1698年)の「法隆寺諸堂仏躰数量記」に「虚空蔵立像 長七尺五分」と書かれたものが、「百済観音についてか書かれた最古の文献」なのだそうです。
百済観音の制作年代は7世紀前半~中頃というのが定説です。
制作されてから法隆寺に所蔵されるまで約1000年もの間、「日本のヴィーナス」は何処を彷徨っていたのでしょう?
1000年の謎に包まれた百済観音は、黙して語らず、ただ「モナ・リザ」と同じような微笑(アルカイックスマイル)を口元に湛え、静かに佇むばかりなのです。
法隆寺の傍に住んで16年、今回「法隆寺ガイド」という世俗的なことに図らずも手を染めてしまった仏教や古代史には全く門外漢のリュウちゃんではありますが、これを機会に、壮大な「法隆寺の謎」の世界に遊んでみようと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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