『暁の宇品』
『暁の宇品』陸軍船舶司令官たちのヒロシマ 堀川惠子 講談社 2021年 この本をぜひとも読んでみたいと思ったのは、「陸軍は陸軍の自由に使える舟を一隻も持っていなかった」という事がこの本に書いてあるとどこかで聞いたか、読んだかした覚えがあったからだ。 日本は島国であって、明治以降の陸軍の動きを見れば、何度も外征を行っている。その際に、兵員だけではなく、兵器から食糧、衣服、に至るまで目的地まで運ばねばならない。なのに、「陸軍は陸軍の自由に使える船を持っていなかった」とはどういうことなのか? 著者はこの本執筆の動機を、 人類初の原子爆弾は、なぜ、ヒロシマに投下されなくてはならなかったのか。本書の取材は、このシンプルな疑問を突き詰めることから出発した。P5 と記している。 アメリカが原爆投下の候補地を決定する際に数回開かれた会議で、広島は常に上位にランクされている。著者は、アメリカが標的として選んだ都市の特徴として、以下の言葉を記している。 an important army depot of embarkation (重要な軍隊の乗船基地) 広島で軍隊の乗船基地といえば、海軍の呉ではない。陸軍の宇品である。P7 呉という地名は知っていた。ところが恥ずかしながら「宇品」という地名は初めて耳にした。 陸軍が外征を行う場合、それに要する兵員と物資とは当然海軍が輸送するものと私は考えていた。というか、陸軍が自前で運ばねばならなかったなどという事は考えた事さえなかった。 日清戦争の3年前の1891(明治24)年、参謀本部は、「兵站勤務令起草文書」において「外征においては海軍に全面的に依存せざるを得ない」との方針を決定した。しかし海軍は、陸軍部隊を運ぶ海洋輸送の仕事は海軍の任務ではないとこれを拒んでいる。 著者は、この件について、「建軍当初からの陸軍(薩摩)と海軍(長州)の縄張り争いに加えて、この国の鎖国の歴史も無関係ではないだろう」と述べている。 諸外国が大航海時代に象徴される長い歴史の中で陸海軍の機能を分担、発展させてき たのに比べ、日本は200年以上にわたって国を閉じた。北前船などのごくわずかな例を除き、長く海運機能を失った。そして鎖国を解いたとたん、いきなり列強とわたりあう軍事力を整備せねばならなくなった。海軍からすれば諸外国に伍する艦船も足りないのに、 陸軍を輸送するどころではなかったとも考えられる。P42 ともあれ海軍に拒否された陸軍は、軍隊輸送を自前で行わねばならなくなった。ところが、その運用には根源的な問題があった。なぜなら陸軍は「自前の船」を一隻も持たず、船員もいない。海洋業務にかんしては、ないない尽くしなのである。P42 最初の外征「台湾出兵」では、大隈重信が急遽外国船を購入、旧知の三菱に依頼して輸送の実務にあたらせて出兵を実現している。 その後はどうなったか。民間船のチャーターが行われている。 国内最大の船会社となった日本郵船を通じて、外国航路用の大型船舶を外国から購入させる。これを「御用船」として戦争の間だけ陸軍が使う。戦争が終わったら陸軍が責任をもって船を再整備して日本郵船の社船に戻すという契約である。 船を持たない陸軍には、操船のできる船員もいない。そこで船とあわせて船員もセットで借りなければならない。そのため、外国から購入した船には外国人船員がそのまま乗務した。(中略) さらに付け加えれば、大型船で運んだ兵隊や軍需品を朝鮮半島の沿岸に陸揚げするためには、船と陸地とを中継する小舟が多数必要となる。これについても陸軍は自前の小舟を持っていない。そこで国内各地に点在する海運業者から大量に小舟を借り上げた。この場合も船体と船員がセットでの徴傭だ。(中略) さらに輸送船に荷を積みこんだり、小舟から沿岸に荷下ろししたりする際にも労働力が必要になる。陸軍にはすでに軍需品や糧秣を前線に届ける雑役を担う「輜重兵」制度があったが、舟の仕事にまで手がまわらなかった。それに海上の仕事には、それなりの熟練を要する。そこで陸軍は、国内各地の港湾で働く沖仲仕らをかき集めて荷役を手伝わせた。 P44~5 この陸軍にとっての海上輸送、著者いうところの「陸軍のアキレス腱」改善に取り組んだのが、宇品に置かれた「陸軍船舶司令部」である。 この陸軍船舶司令部の司令官の田尻昌次の時代に、「陸軍にとっての海上輸送」は大きく近代化された。 田尻についての記述は、第二章「陸軍が船を持った」、第三章「上陸戦に備えよ」、第四章「七了口(しちりょうこう)奇襲戦」、第五章「国家の命運」と続く。田尻は、家庭の貧困のためにせっかく入学した三高を退学、実家の但馬にかえって尋常高等小学校の代用教員となる。月給10円。これで祖父と妹二人を養わねばならない。背広も買えず、三高の制服で通したらしい。 教師としての楽しみを見つけたころに徴兵検査があり、甲種合格、即座に地元福知山連隊への入隊が決まる。祖父と妹二人はどうなるのか。 ちょうどその時、日露戦争への戦時要員として陸軍士官学校に全国の英才を集めるというニュースが飛び込んできた。将校への道が約束されている士官学校へ入学できれば家計は助かる。田尻は再び猛勉強の末に士官学校に入学。田尻21歳。新入生の彼は、エリート将校の卵である幼年学校出身者から散々に殴られる。理由は「髪が長すぎる」。 田尻は歩兵742人中47番。 彼は、入隊した新兵の教育担当となる。彼は新兵に対する古参兵のリンチを時として内務班に入って強制的にやめさせている。 中尉に任官後、但馬出身のかれは、藩閥の壁にぶち当たる。 彼はその理不尽さを乗り越えるために勉学に打ち込み、英語の学習にも励み、後には海外の文献も読みこなせるようになる。そのことはもともと合理的な精神の持ち主だった彼の才能を開花させ、後には米英の作戦資料を読みこなせるようになる。 彼は船舶畑をわたりあるく。 陸軍の運輸方面での開発に大きな影響をあたえたのが、第一次大戦のガリポリ上陸作戦(これを起案したのが英のチャーチル)だった。上陸作戦はトルコ軍の陸からの猛攻を受けて大失敗に終わっている。 この上陸作戦の敗因で注目されたことの一つは、手漕ぎのカッターは損害を受けやすく、無傷で上陸できたのは外付けエンジンの、自走できる鉄舟だったことだ。P71 これが、ノルマンディー上陸作戦などを描いた映画、例えば「プライベート・ライアン」などに出てくる上陸用舟艇である。 この開発は10年かかっても達成できなかった。この時期、田尻は参謀本部の末尾に席を連ねている。 田尻が中佐となり、現場を率いる船舶班長になったとき、予備役の技術者だった市原健蔵というという人物と出会う。市原は造船技術者であった。この時期、すでにアメリカが仮想敵国とされ、フィリピンのルソン島への上陸も想定されていた。 市原は、田尻に言った。 中央の方々し、一隻の船の中に兵装の歩兵35人と馬匹を同時に搭載せよとおっしゃいます。しかし、こんな条件で上陸用舟艇を開発するのは至難です。(中略) 船乗りには知られた事ですが、あの辺りの海域は日本近海とは比べようのない3メートル以上のあらうみ、それも手ごわい巻波が起こります。それを小舟で渡り切るには、兵隊と馬、さらには戦車の搭載を別々の種類の舟艇に区分けしなければ、どうにも安定が取れません。それに戦車の大型化も進んでいるという話ですから、それ専用の舟艇も別途、必要です。(中略)田尻は驚いた。一技術者が上陸地点の様子まで詳細に想定して舟艇開発に臨んでいる。P74~75 昭和三年に上陸用舟艇は完成する。 市原は、様々な種類の発動艇、装甲艇を完成させていく。 一方で、田尻は、「工兵」の中に「船舶工兵」をくわえさせるように努力、さらに、陸軍兵に「船舶練習員制度」を定着させようとする。 実際の現場では、波の影響で上下左右に激しく揺れ動く輸送船から重い背嚢を背負って銃を持ち、完全武装の状態で艀(はしけ)を伝い、海面に揺れる小舟に飛び降りなければならない。これには相応の経験と技術が必要で、タイミングを間違えばすぐに足を骨折してしまう。P83 日本は、満州事変を迎え、田尻も戦地へと派遣される。その詳細は、第四章「七了口奇襲戦」に詳述されている。 第五章「国家の命運」で、田尻は、大型輸送船、小型舟艇にも敵からの攻撃を防御する装備を持たせるべく陳情を続ける。 さらに、輸送船の煙突から出る煙が敵航空機に位置を突き止められる原因となると考えて実験を重ね、無煙炭と有煙炭とをある割合で混合すれば、煙はほとんど出ないという結果を得た。しかしそれを実用化する設備には予算は下りなかった。 田尻は、船員の身分保障にも取り組んでいる。民間の船員は、軍人でも軍属でもなく、ただの雇人扱いで、戦死しても何の補償もない。戦闘訓練も受けぬまま丸腰で危険な戦地に放り込まれ,朝から晩まで働かされる。 日中戦争は泥沼状態となり、終わりが見えない。そんな中で、近海の輸送業務に携わる海運業者、地元県知事から嘆願が寄せられる。「運用船を早く返してほしい。国内の輸送業務に使わせてほしい」。特に、石炭輸送に支障が出ていた。 (昭和14年になると)夏期の国内輸送の繁忙期に入る直前、陸軍運輸部で、「船腹の手当未済」と称せられた国内物資は300万総トンを超えた。各業界から寄せられた要望から田尻が算出すると、その手当のために最低限必要な船腹量は46万総トンに上った。 この46万総トンという数字が意味するところは極めて深刻だ。陸軍が中国で常時使っている徴傭船は公称80万総トン。その6割を解傭(船会社に返却すること)して民間輸送に充てなければ国力は保てない。(中略)しかし、軍が作戦に使う事の出来る船舶が現状の4割に低下すれば戦争を続行することはとてもできない。P157 このような中で、重要資源を東南アジアに得ることで活路を見出そうとする南進論が台頭してくる。 田尻は、ある決断をする。それが第六章「不審火」のP159から167に掲載されている意見具申書を陸軍中枢、厚生省、大蔵省、逓信省、鉄道省、商工省と船舶輸送に関係するすべての省に対して送ったという事である。彼は、自身の積み重ねてきた体験に基づき、事実に基づいて日本の船舶輸送が抱えている問題点を白日の下にさらした。とくに、民需と軍需の相反関係について述べた。昭和14年7月の事である。 昭和15年3月4日、宇品地区の運輸部倉庫から出火、倉庫4棟が全焼した。 その三日後の3月7日、田尻のもとに陸軍省から一通の命令書が届いた。 「陸軍中将田尻昌次を諭旨免職とする」。 広島を去るとき、東京に到着した時、田尻は実に多くの人たちに見送られ、迎えられている。直言による免職としか思えない。 そして第七章「「ナントカナル」の戦争計画」。第八章「砂上の楼閣」。第九章「船乗りたちの挽歌」。第十章「輸送から特攻へ」。第十一章「爆心」。 「ナントカナル」という言葉は、対米・英開戦が国家の意思として決定される前後によく使用された言葉のようだ。 真珠湾攻撃に先立って行われたマレー侵攻、そして東南アジア各地占領の目的は、対中戦争によって底をついた諸資源を獲得し、日本へと持ち去ることにあった。この点は動かせない。そうなると、東南アジア各地域で獲得した石油をはじめとする地下資源、食糧等をどのようにして日本に輸送するかが、まず第一に検討されねばならない。 第七章P209に、懐かしいNHKの番組名が記されている。「ドキュメント太平洋戦争」。いまでもはっきりと記憶にあるのは、「南方作戦に伴う船腹検討図表」である。番組では、これが動画化されていた。それは、南方と日本を結ぶシーレーンにおいてどれくらいの輸送船が失われるかの推計であった。 開戦時の大蔵大臣であった賀屋興宣の証言がある。 冷静に議論をしようとしてもすでに意図が定まっていて議論はあとから理屈をつけるということが多い。たとえば、最も重要な海上輸送力の計算をするのに、新造船による増加と損傷船の修理能力を一方に計算し、一方に戦争による減耗を考える場合、減耗率を少しづつ少なくみて、増強力を少しづつ多く見れば、結論のカーブは非常に違ったものになる。そこを人為的にやればなんとかやれると云う数字になるのである。冷静な研究のようで、それは大変な誤算をはらむ状況である。P213 損耗率の根拠として採用されたのが第一次大戦の際のドイツ潜水艦によるイギリス船舶の撃沈のデータで、10%だった。ところがすでに始まっている第二次大戦においてイギリス船舶は一年目に311万総トン、二年間で791万総トンとなり、損耗率は37%という数字になっている。 この数字は、同盟国ドイツが喧伝しているものである。陸海軍が知らないはずはない。 繰り返すが、対米英戦の目的は南方の資源を獲得し、それを日本に輸送することであったはずだ。そうなると、なにをおいても、その目的が実現可能かどうかを徹底的に調査する必要があったはずではないか。 少なくとも海軍は艦船の多数を割いて陸軍の輸送を護衛し、陸海軍の航空隊も輸送船の安全を保つことを最優先課題とするべきであった。 しかし、損耗率10%という数字はすんなり通ってしまう。さらに昭和17(1942)年、海軍は、ミッドウェー海戦において空母4隻、多数の熟練したパイロットを失う。しかし、海軍は、この事実を陸軍に対して隠し続けた(宇品の司令部は、この情報を掴んでいた)。日本が勝つか負けるか(戦前の冷静な予測はすべて負けると判断)の瀬戸際にあって、海軍はなお陸軍に対するメンツにこだわったわけである。 では、実際の船舶損耗はどうだったか。 戦争1年目、96万総トン。2年目、169万総トン。3年目、392万総トン。 緒戦の大勝利は、海上輸送に対する不安、日本の工業力がアメリカにはるかに劣ることなどの不安材料をすべて吹き飛ばしてしまった。その後の対応は「その場しのぎ」としか言えないことになる。 第九章「船乗りたちの挽歌」で、焦点があてられるのが、ガダルカナル島の攻防である。 著者は、ラバウルからガ島までは1035キロメーター。最新の輸送船団でも40時間かかる。さらに、輸送船団を守る航空機は、ラバウル基地から1000キロ飛んで護衛しなければならない。燃料のことを考えれば、ガ島上空に止まれるのはわずか5分。 海軍は、戦艦と巡洋艦を投入してアメリカが占領していた飛行場を猛攻、船員たちの間では、「飛行場は壊滅したらしい」という噂が広がった。 6隻の輸送船は、全船が砂浜に沿って一列縦隊に投錨。それを見届けて護衛の海軍戦艦は引き揚げた。 1万総トンクラスの船からの軍需品の揚陸は当然のことながら時間がかかる。そこへ、アメリカ軍が総力を挙げて襲い掛かる。破壊された滑走路以外にアメリカはもう一本の滑走路を建設、生き残った戦闘機が攻撃にあたった。また、ガ島から800キロ離れた島からも援軍が駆け付ける。結局、半数の輸送船が失われ、3隻が満身創痍で帰還する。 揚陸された物資は、輸送に必要なトラックもクレーンもなかったために放置され、アメリカ軍の攻撃を受けてすべて燃え尽きている。 二度目の輸送は、「特攻作戦」と言っていい状態で行われる。本来の上陸作戦は、武装した兵員を送り込み、十分な火器・弾薬、資材、食糧を送り込んで計画的に資材の揚陸を行わねばならなかったにもかかわらず、そんなことは行われていない。 ある船にいたっては、「浜辺にじかに船体を乗り上げ、死しても搭載物資を揚陸せよ」という命令が下っている。アメリカ軍も必死で爆撃を決行、結局、揚陸できたのは兵2000人、弾薬260箱、米1500俵だけ。 こうして、ガ島は、餓島となっていく。 そして輸送船団はつぎつぎと壊滅していく。 第十章「輸送から特攻へ」。 この段階になると、東南アジアの港の倉庫には資源が山と積み上げられていく。日本に輸送する船が足りなくなったのである。 宇品の船舶司令官室では、「特攻兵器」の生産と訓練が協議されるようになる。ベニヤ板に爆弾を積み込んで敵艦に体当たりする「特攻兵器」である。 全国から「船舶特別幹部候補生隊」と称し、採用後直ちに一等兵になれるという「特典」が餌となって全国から2000人の若者(15~19歳)が集められた。彼らがこの特攻兵器に乗り組み、敵艦に体当たりをする要員であった。 そしていよいよ第十一章「爆心」。 8月6日の閃光ののちに広がった類例のない惨状に対して宇品にいた佐伯文郎司令官がどのような行動をとったかがこの章の中心となる。 佐伯司令官は、司令部の全部隊を広島市に投入、江田島で待機させられていた少年たちも招集され、ベニヤ板の特攻艇、或いは上陸用舟艇に乗って川をさかのぼって、消火、被災者救助、治療にあたっている。備蓄してあった食糧、衣服も放出され、水道の確保、修理も行われた。炊き出しも行われている。 佐伯は、「広島市戦災処理の概要」という手記を残している。著者は、「長い間、この手記に強烈な「違和感」を感じていた」と記している。 そのあまりに適切な指揮ぶり、災害復旧に対する博識、そして何よりも米軍上陸に対して温存せねばならぬ兵員と兵器、そして食料をすべて被災者救援のために放出したという決断力。 例えば海軍は、江田島にいた海軍兵学校の生徒数千人を一切動かさず、温存している。 よく出来過ぎている・・・と思っていた著者は、軍事史家、戦史研究センターの所員と話していてその疑問を氷解させる。 佐伯は、関東大震災の際に、参謀本部に勤務、参謀たちは震災に対する災害復旧に対するあらゆる指揮をとっている。その経験が生きたという事になる。 佐伯は、原爆投下35分後に行動を起こし、さらに投下されたのが原子爆弾であるとの確認も行っている。 佐伯は各部隊に記録を残すように重ねて促している。遺体の処理にあたった特幹隊(引用者注 特攻要員)をはじめとする兵隊たちには紙と鉛筆を支給し、死亡者の本籍や氏名、それが不明であれば所持品や遺体の特徴などを詳細に書き残し、遺品は状袋に入れて提出するように命じた。これが後に膨大な原爆犠牲者の記録となり、後世に長く伝えられてゆくことになる。同時に、爆心に寝起きした多くの兵隊たちは、それぞれの故郷に戻ってから二次被爆によって次々と命を落とした。P352 さて、「なぜ広島に原爆が落とされたか」という問いに帰らねばならない。著者は、それは、呉ではなくて物流の中心点であった宇品をかかえていたからだ、と結論付けていた。しかし、宇品は生き残り、広島の被災者の救護に全力で当たった。 著者は記している。 原爆投下の前日、広島市上空に偵察機を飛ばして綿密な撮影を繰り返したアメリカ軍が最終的に原爆投下目標と定めたのは、宇品ではなかった。陸軍倉庫や軍需工場が立ち並び、特攻隊基地が置かれた宇品はほぼ無傷で生き残った。 アメリカ軍の海上封鎖によって宇品の輸送機能はほとんど失われており、もはや原爆を落とすほどの価値はなかった。さらに言えば、兵糧攻めと度重なる空襲で芯から干上がった日本本土に原爆投下の標的にふさわしい都市など残されてはいなかった。 それでも原爆は落とされねばならなかった。莫大な国家予算を投じた世紀のプロジェクトは、必ず成功させねばならなかった。(中略)それは終戦のためというよりも、核大国アメリカが大戦後に覇権を握ることを世界中に知らしめるための狼煙であった。P353~4 原子爆弾が完成した後、陸・海・空軍の首脳が集められ、原爆投下の是非が問われた。海軍は、人道上の理由から反対している。空軍は、すでに日本は石器時代に戻りつつあり、投下する必要はないと反対した。陸軍は、上陸作戦の中核とならねばならないことからいったんは態度を保留している。 例えばマッカーサーなどは、上陸作戦に伴うアメリカ側の犠牲者を5万人程度と推計している。上陸作戦が行われる前に降伏するだろうという見通しもあった。 ただ、政府にとっての心配は二つあった。 一つは、著者の言及している莫大な国家予算を投じて完成したものを何故使わなかったのか。という非難を恐れたこと。 二つ目が、ソ連の対日参戦である。対日参戦によって日本が降伏を決意したのは確実であるが、そうなると日本人はいったい「どの国に負けた」と思うのか? 原爆の使用は、「アメリカに負けた」という印象を造り出すのに有効である。そして原爆によって何人のアメリカ兵の命が救われたのかという宣伝が開始され、原爆投下の正統性がアメリカ国内を覆うようになる。最終的に、「原爆投下は百万人のアメリカ兵の命を救った」というところまで「犠牲者数」は、膨れ上がる。以上は『原爆はなぜ投下されたか』西島有厚 青木文庫 1971年 による。アメリカではきのこ雲の下で何が起こっていたかという事は不問に付される。1995年に「原爆展」を企画したスミソニアン博物館は、「きのこ雲の下」にも触れようとしたためにアメリカ在郷軍人会の猛反対を受け、館長が辞任する事態にまで発展、結局、エノラゲイのレプリカ展示でお茶を濁す結果となっている。 著者は終章に、田尻昌次がその自叙伝に残した言葉を引いている。 四面環海のわが国にとって船舶輸送は作戦の重要な一部をなし、船舶なくして作戦は成立しえなかった。船舶の喪失量が増大するにつれ、作戦は暫時手足をもがれ、国内の生産・活動・戦力を喪失し、ついに足腰の立たないまでにうちのめされてしまった。兵器生産資源及び食糧の乏しいわが国がこのような大戦争に突入するにあたりては、かかる事態に遭遇するの可能性について十分胸算用に入れておかねばならぬ重大事項であった。(略)もし再び同様の戦争が起きるならば、わが国は一年もたたぬうちに大戦末期の状態に陥ることであろう。P376 「一年もたたぬうちに大戦末期の状態に陥ることであろう」という言葉は重い。日本という国は、敗戦時と何にも変わっていない点がある。それは、資源の自給率が低いという事であり、さらにそこに食料自給率の低さという要素が加わっている。 軍事的判断ではなくて政治的判断によって、アメリカ大統領に言われるままに42兆円という国費を投じて旧型の兵器を買いこむ。これで、「戦争ができる国になった」と考えることがどれほど愚かなのか。この本が読まれてほしいと私が切望するのは以上の理由による。