ヒトラーの権力獲得(5)
対立する立場にあった人々は、この事態をどのように見ていたのか。 「これは重工業とユンカーの政府だ、社会民主党の機関紙『フォアヴェルツ』はそう書いた。ヒトラーは、『男爵のお情けで首相にしてもらった』と。共産党の周辺はもっとひどかった。レーニンと並ぶロシア革命の重鎮、亡命者のトロツキーはフーゲンベルクを最重要人物とみなし、ヒトラーは大資本家の意を受けた実権を持たない看板に過ぎないと判断した」(31) 「これがわが党の過ちの一つだった。律儀なことに私も一緒になってそれを犯した。つまり、私たちはファシズム独裁が築き上げられるまでのすべての段階をすでに『ファシズム』と呼んでいた。『社会ファシズム』『ブリューニングファシズム』『パーペンファシズム』『シュライヒャーファシズム』と。そうすると『ヒトラーファシズム』などただの付け足しでしかなかった」(当時ドイツ共産党員 エミール・カーレバッハ)(32) ここに見られるのはヒトラーに対する徹底した軽視である。右派も左派も彼を一過性の泡沫候補とみなしていた。 1月30日にヒトラーは正式に首相に任命された。彼は合法的な政権交代であることを強調し、「ドイツの復興のために愛国主義の諸政党が共闘する事」を述べ、さらに「ドイツの歴史に誉れあれ。私が今やこの仕事に指導者として参加を許されたのは、諸君が忠誠を捧げ敬慕する元帥閣下(ヒンデンブルク)の寛大なるご決断の賜物である。わが党友たちよ、私を信頼してくれたまえ。さすれば、全能の神もまた、名誉と自由と社会の平和に満ちたドイツ国家の再建に対して、祝福を拒まれないであろう」と。(33) 当時23歳であったヘルマン・シマンスキーは、回想している。 「1月30日は私にとって喜びの日でした。なぜなら私は心の中でこう考えたのです。『我々ドイツ人が再び陽の当たる所へ出られるように、これは主なる神が遣わされた男だ』。『これからはよくなる。太陽の方へ向かっていく』」と。(34) フランスの特派員であったステファーヌ・ルッセルは回想している。 「私はしばしば感じたのですが、ドイツはあの戦争(第一次大戦)から、あの不確かな、卑劣にさえ感じられる敗戦から、決して立ち直れなかったのでしょう。ここにいるのは病んだ国民です。この病んだ国民が、今や奇跡の医師を見つけました。こう言ってくれる男です。『私はお前たちを再び勝利する国民にしてやろう。お前たちはどこへ出ても恥ずかしくない国民になれるだろう!』。無数の演説でヒトラーは希望を与えることに成功しました。『これからはすべて変わる』という感覚を与えることに、彼は成功したのです」。(35) 1月30日の時点で、ナチ党の実働部隊は権力の重要拠点を押えはじめた。行政の要職はナチ党員が引き継ぎ、警察本部長は地位を明け渡すように強いられた。夜にはドイツ共産党の新聞『ローテ・ファーネ(赤旗)』が発禁処分と差し押さえを受けた。 こののち起こった事態は、後にナチ党に対する抵抗運動を果敢に行ったマルティン・ニーメラーの以下の言葉に尽くされている。 「ナチが共産主義者を襲った時、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者ではなかったのでなにもしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増大したがなおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間だった。そこで自分は何事かをした。しかしその時にはすでに手遅れであった」。(36)P475~6 一方でヒトラーは、現実的手法も取っていた。再軍備のことは慎重な言い回しをするようになっていた。しかし一方で、2月11日に開催されたモーターショーでは「ドイツ国民のモータリゼーション」を口にし、高速自動車網アウトバーンの建設も約束している。公共事業による失業者救済方針を打ち出したのである。 そして運命の日、1933年2月27日が来る。国会議事堂が炎上したのである。放火犯としてヴァン・デア・リュッベというオランダ共産党員が逮捕された。彼がほんとうに放火犯であったかどうかは今でも謎であるが、この事件が何に利用されたのかははっきりしている。 リュッベの単独犯行説は当初からゲーリング内務相によって否定され、犯人が用意した発火材料は45kgから450kgに「訂正」されて公表された。捜査担当者は「一人では運べません」と抗議すると、ゲーリンクは、「なぜ単独犯と断定するんだ。20人も30人もいたかもしれないじゃないか。これは共産党の組織的犯行なんだ!」と「断定」した。 共産党員への逮捕命令が出され、2月28日、ヒトラーは閣議にコミュニストと「法的考慮に左右されず決着をつける」ためとして、「民族と国家防衛のための緊急令」と「ドイツ民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令の発布を提議した。パーペンが「バイエルン州で反発を受けるかもしれない」と意見を述べたのみで、ほとんど修正される事無く閣議決定された。パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領も黙って承認し、国家防衛緊急令は即日、反逆防止緊急令は翌日公布された。これにより言論の自由や所有権は著しく制限され、政府は連邦各州の全権を掌握できるようになった。 このようにして当時西欧世界で最大の規模を誇っていたドイツ共産党は壊滅した。コミンテルンがそれまでの「社会民主党主敵論」を転換して「反ファシズム統一戦線」採用に踏み切るのは1935年のコミンテルン第7回大会のときにであった。 「民族と国家防衛のための緊急令」には、「人身の自由の制限、意見の自由発表(出版の自由を含む)の権利の制限、組織・集会の権限に対する制限、信書・郵便・電信・電話の秘密に対する干渉、家宅捜索命令、財産没収命令、所有権の制限も法的限界を制限されない」とある。 「ドイツ民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」は、別名「授権法」ともいう。「ドイツ国政府が議決したドイツ国法律はドイツ国憲法に背反することが許される」と第二条に規定されているように、ワイマール共和国と、その憲法の全面否定であった。(37) そして3月5日に最後の選挙が行われる。 ナチ党は43,9%、社会民主党18,3%、そして共産党は12,3%の得票を得た。 6月22日にはドイツ社会民主党が禁止された。 ヒトラーは以下のように述べたことがある。 「我々は寛大ではない!私は一つの目標を設定してきた。すなわち30もある政党をドイツからたたき出すことである。我々は一つの目標を選び、それをファナティックに堅持する。容赦なく終生変わらず!これら30の政党が生まれる以前に存在したのはドイツ民族である。我々はドイツ人とすべての人間を次のように理解させるつもりだ。すなわち生は法なくして存在せず、法は権力なくして存在せず、権力は力なくして存在せず、力はすべて自民族に食い込んでいなければならない」(38) それが実現したわけである。 ナチの党大会を『意志の勝利』という映画で撮り、ベルリンオリンピックを『民族の祭典』という映画で記録したレリ・リーフェンシュタールは、戦後になってから、ナチに対する協力について見解を求められた時に以下のように言い放っている。 「私が何の罪を犯したというの。あの当時、ドイツ人の90%がヒトラーに熱狂していたのよ。ナチは合法政党だったのよ」(39) 「あの当時」とはいつなのか?ユダヤ人、そして反対派は強制収容所に送られ、或いは亡命していた。ユダヤ人が所有していた財産は取り上げられ、彼らが就いていた仕事はヒトラーを支持するドイツ人に解放されていた。 たとえば当時も世界を代表するオーケストラであったベルリンフィルには120人の正式メンバーのうちユダヤ人が47人を占めていた。また有名な指揮者ブルーノ・ワルターもユダヤ人であり、追放の憂き目にあっている。そのポストを手に入れたのはドイツ人音楽家であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンであった。 そのような状態のもとで「ドイツ人の90%」がヒトラーを支持したのは当然と言えよう。 そして決定的な「事件」がおきる。 エウジェニオ・パチェリ(後の教皇ピウス12世)とピウス11世が、ナチス政権が発足して半年後の1933年7月20日に、ナチス政権とコンコルダート(政教条約)を締結したのである。 1月30日のナチス政権発足後に頻発していた反対派、ユダヤ人への暴行がヴァティカンに報告され、ドイツ教会関係者たちが一貫して反ナチスであったにもかかわらず、ヴァティカンは、ナチ政権を承認した世界最初の国となった。 1939年3月2日、パチェリは、教皇ピウス12世となった。そして彼は、第二次世界大戦中に行われたナチによる蛮行、またはクロアチアで行われた反対派の虐殺、強制改宗に関して、様々な情報を得ながらもついに一度も抗議することなく沈黙を守り続けた。 これと対象的なのがミュンスター司教のアウグスト・フォン・ガーレンであった。彼はナチスの安楽死政策を弾劾し(1941年8月3日)、その政策を中止に追い込んでいる。ヴァティカンは、この安楽死に就いて一切抗議も報道もしていない。また、反対派への暴力、ユダヤ人殺害、安楽死計画に対して反対を表明した3700名もの聖職者が強制収容所に送られていることに対してもヴァティカンは何もしていない。 この事を詳述した『ローマ教皇とナチス』大澤武男 文春新書で、著者は、「もともと教皇を頂点とする教会のヒエラルキー構造は、全体主義、ファシズムに通じる面もあったといえる」(P66)と指摘している。 教皇の親ナチス的行為が、反ソビエト、反共産主義から来ていることは疑う余地はない。それは、ドイツでナチを支持した大資本家、軍部などの保守派の心情と共通する点である。要するに、ボリシェヴィキよりナチスの方がマシということである。その「よりマシ」論がナチの蛮行を許し、教皇の沈黙を生み出す事になった。 ピウス12世のあとの教皇たちはユダヤ人に対して遺憾の意を表しているし、ドイツのプロテスタント教会は、ナチ政権と共同行動をとった面があったことを認めて深い反省の意を表明している。 また著者は、単にピウス12世を俎上に乗せるだけではなく、当時の大国がいかにユダヤ人に対して冷淡な態度をとったかに就いても厳しい指摘を行っている。