『史記』(5)
列伝の最初にすえられているのが、「伯夷列伝」である。列伝とは個人の伝記という意味であり、司馬遷は、多くの場合、「事実を持って語らせる」という手法を貫いている。しかし、この「伯夷列伝」は、様相を異にしている。「800字に近い文中で伝と目すべきは約4分の1にとどまっている」(「史記」新釈漢文大系)。4分の3は、司馬遷の思いがつづられている。 伯夷と叔斉は殷の紂王を討とうとした武王に対して、その前に立ちふさがり、「父が死んで葬儀もせずに戦うのは孝といえようか。臣でありながら君を殺そうとするのは仁といえようか」と諌めた兄弟である。殷は滅亡して周が天下を統一する。兄弟は武王の行為を恥として周の国に仕えて生活することなく、首陽山にこもってワラビをとって食べ、ついに餓死した。そして最後に、「私の諫言は容れられず、私ははるかな西山に登ってワラビをとってわずかに生をつないでいる。私の意見を拒んだ武王は自らの暴を以って殷の暴にとってかわっていながらその非に気付いていない。神農・堯・舜の王道は今やまるでなくなってしまった。いったい私はどこに行き、どこに落ち着けばよいのか。ああ、死ぬほかない。天命はその力をうしなったものであるよ」とうたった。 司馬遷はいう、「孔子は『二人は仁を行おうとして仁を行ったのだから、何も恨むことはなかった』といっている。しかし、恨みがなかったとは言えないのではないか」と。 司馬遷は、友人への手紙の中で、および『史記』の巻末に収録されている自伝の中に、念願であった作品を書き終えた今、「人を恨む気持ちは全く起こらなかった」と記している。それは本当なのだろうかという疑問が私の中に残る。 司馬遷は、伯夷や叔斉のような聖人に近いような人物、孔子の弟子の中で孔子が最も期待をかけていた顔回のような人物が非業の死を遂げ、大悪党、大盗賊が天寿を全うした事実を記して、「天道というものは正しいのか間違っているのか、ことによると間違っているのではないか」と記しているが、その中に、自己の信念に従って武帝に諫言を行い、宮刑に処せられた自分の事が重ならなかったわけがない。 司馬遷の没年は定かではないが、『史記』完成後、時を経ずに亡くなったというのが定説である。彼の生涯は『史記』執筆のためにあったといっていい。筆を置いた時の感慨として、それまで心の中にわだかまっていたすべての感情が一気に浄化され、「人を恨む気持ちは全く起こらなかった」という境地に至ったのであろうか。 最後に、初めて『史記』を読んだ時に、強烈に印象に残った部分を以下に記す。引用は、「匈奴列伝」から。 <>の中の文章は、井上靖の「宦者中行説」(『井上靖全集』第六巻所収)からの引用である。司馬遷の記した中行説という人物の理解を深めるために必要であると判断しての措置である。 匈奴を強大な勢力とした冒頓単于が死去して後、老上単于が立つ。その時、漢は単于に漢の王室の親戚筋に当たる娘を公主(皇帝の娘)と偽って妻として送り込む。その時、御附きのものとして同行させられたのが宦官の中行説という人物である。 <文帝の前に呼び出され、その命を受けたとき、中行説は笑っているとも泣いているとも判らぬ宦者特有の深く皺の刻まれた顔をまっすぐに上げて、若い天子を見ると、 「この老いた体を漠地に於いて果てしめよとお言いでございますか」 と言った。 文帝は歴とした宗室の女を胡地に送る以上、それを政略的に効果あるものにしなければならなかった。決してそのために逆の効果を招いてはならなかった。漢の公主は胡地にあって、夫である単于の心も掴まねばならなかったし、その一族のものとも折り合いよくやって行かなければならなかった。当然予想される後宮の女たちとの争いもうまく処理しなければならない。そうしたことについて公主に適切な助言を与え得る人物としては中行説の右に出る者はないと思われた。学識もあり、事にあたっての判断も凡庸ではなく、そして何よりももし必要とあれば自分の生命を投げ出す忠誠心に貫かれている人物である> 彼は、「わたくしが行けばかならず漢の禍いのもとになろう」と言った。 <そう言うと中行説は鄭重に一礼して、背を曲げて、いつも見せる持前の妙に頼りない歩き方で文帝の前を退出して行った。中行説は文帝に厭がらせを言ったのではなかった。何となくそのようになりそうな予感を覚え、それを口に出してしまわなければ面倒なことになりそうな不安を感じたのである。中行説を不気味なものに眺めたのは文帝許りではなかった。中行説自身が自分に対して妙に信頼のおけぬ厭なものを感じたのであった。> <中行説は毎日のように(匈奴の)王宮に伺候していたが、これと言った仕事は与えられなかった。集会の時も、そこに顔を出したが、末座で傍聴しているだけで、それに口をさし挟むことは禁じられていた。中行説は、併し、何も為すことのない自分の奇妙な役に,さして退屈は感じなかった。匈奴人の物の考え方を知ることも、匈奴人の習俗を知ることも、匈奴の武将たちの作戦がいかなるものかを知ることも、みな興味を持つに足ることであった。> ある時、漢の使者が、「匈奴の風俗では老人が粗末に扱われている」と言った。 <匈奴側ではすぐに口を開くものはなかった。すると、漢使は続けて言った。 「うまいものは若者が食べ、若者が食べた残りを老人が食べる。若し、貴国でそのようなことが実際に行われているなら、それは即刻改めるべきであると信じます」 その時、末座の方に坐っていた中行説が口を開いた。自分でも知らないうちに、ふいに言葉が口から飛び出したといったような、そんな自分でも抑えることにできぬものに支えられた発言であった> 中行説は使者に言った。 「漢の風俗でも、若者が従軍して出発する時に、年老いた親は自分の着ていた暖かい服や栄養のある食べ物を息子に与えようとするだろう。」 使者は、「そうだ」と答えた。 中行説は言った。 「匈奴は、公然と戦争を本務としている。老弱者は戦争が出来ないので元気な若者に美味しいものを食べさせ、それで自らも国を守っていると思っているのだ。それでこそ老人たちも安全に生活が出来る。匈奴が老人を大切にしていないなどと言えないだろう。」 <漢使は、中行説が漢人であるのを知ると、口調を烈しくして> 「しかし、匈奴は父と子が同じテントで眠り、父が死ねば継母を自分の妻とし、兄弟が死ねばその妻を自分の妻とし、衣冠束帯の礼儀も、朝廷の礼式もないではないか。」 中行説は答えた。 「匈奴の習俗では人は家畜の肉を食い、その乳を飲み、その皮を着る。家畜は草を食い、水を飲み、季節によって移動する。それゆえ、人々は戦時には騎射を練習し、平時には泰平を楽しむ。その法制は簡易で分かりやすく、実行しやすい。君臣の間も気軽である。 父や兄弟が死ぬとその妻をめとるのは家系の絶える事を怖れるからだ。したがって匈奴は国が乱れてもかならず同宗・同祖のものを立てて王とする。然るに中国ではうわべを飾って父兄の妻をめとることをしないけれど、親族はどんどん疎遠になり、はては互いに殺し合い革命騒ぎとなるではないか。 その上、礼儀を強制するものだから恨みが生じ、見掛けを飾るから競って大きな家をつくり財産を使い果たしてしまう。 人民は戦時にも訓練を行う事はなく、平時は農業で疲れきっている。泥の家に住む漢人よ、冠をつけていたとて何の利益があると言うのだ。」 <漢使は色をなし、なおも匈奴についてその短所を疑問をただすようないい方で指摘したが、みな中行説にやり込められた こうしたことがあってから間もなく、中行説は初めて老上単于に招かれ、親しく単于から声をかけられた。 「匈奴の単于としてわれはいまなにをなすべきであるか。何なりとも言ってみよ」 中行説は詳しく自分の考えを述べた。> 「匈奴の人口は漢の一割にしか当たりません。それにもかかわらず強いのは、漢とは衣食を異にし、その供給を漢に仰がないからです。単于がその習俗を変えて漢の産物を愛好されるようになれば、漢は自国で消費する物資の二割ほどを使うだけで匈奴を従える事ができるようになるでしょう。 漢の絹や綿で作った衣服で棘の中を駆け巡れば衣服はすべて裂けてしまいましょう。漢の衣服が匈奴の皮製の衣服の丈夫さに及ばない事をお示し下さい。 また漢の食糧が手に入りましてもすべて捨ててしまい、匈奴の牛乳・チーズの便利さとうまさには及ばない事をお示し下さい。」 <この頃から中行説は少しづつ忙しくなった。何人かの人を使って、匈奴の人口を調べたり、家畜の数を調べたりした。そしてそれを箇条書きにして、老上単于のもとに差し出した。こうしたことに依って初めて諸王の兵力や財物を知ることができ、兵制を改革する上に大いに役立った。 中行説は毎日のように老上単于と二人だけの時間を持つようになった。中行説はやがて、曾て漢の若い天子に対したのと同じ忠誠心を以て、老上単于に仕えている自分を発見した。> <(老上単于が没した時、漢の使者が来る。使者は中行説と逢う) 「汝は長安の都を恋しいとは思わぬか。都には知人多く、都の風は甘く、都の水は美しい」 使者が言うと、 「いかにも長安の都も見たいし、都の水も飲みたい。都の空気も吸いたい。旧知の人ともあって語りたい。おそらく文帝陛下がお考えになるより、もっと烈しく自分は長安の都を死ぬまでに一目でも見たいと思っている。が、単于の命がなければ私は帰ることができない。いまはこの漠地が私の故国であり、骨を埋める地である」> 『史記』では、単于への献言がまず記されており、漢使との対話はその後に記されている。井上は、漢使との対話をまず記し、続いて単于への献言を配している。漢使との対話によって単于の信頼を得、献言できる立場になったという解釈だろう。わたしもそれを踏襲することとする。その理由は、匈奴という漢とは全く生活習慣も価値観も習俗も異なる社会に対する真摯な観察と、観察しえた事実に基づく人々に対する共感なしには漢使に対するあのような発言はありえず、当然、単于に対する献言もありえないと思うからである。 漢と匈奴という二つの世界の価値観と習俗を相対化して語る中行説の言を紹介する司馬遷の筆致は、絶対的な価値を設定せず、世界の各地域を序列化することなく、各地域に存在する価値観と習俗がその地域においてもつ合理性を研究する文化人類学の手法を見るようでもある。