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2005年06月16日
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予告どおりに裏関が原としてちょっと書いて見ます。(メインは直江兼続で)
直江兼続は、1560年、織田信長の桶狭間の合戦があった年に越後国坂戸城下(六日町)にうまれ、幼名は与六といった。この年、くしくも石田三成もうまれており、同い年であった。父は、樋口兼豊といい、上田城主長尾政景の、薪炭用人(炊事がかり)であった。これよりはやく、上杉謙信の姉綾子(仙洞院)が長尾政景に嫁ぎ1555年11月次男卯松(うのまつ)を生み、1559年、5歳で謙信の養子となり顕景(あきかげ)と改名している。この人こそ後の上杉景勝公(長尾上杉氏2代目)である。あるとき、父親にくっついて上田城にでいりしていた与六(兼続)をみ、話をした仙洞院は、その利発さを見初めて顕景の近習として取り立てて、景勝公とともに育てられた。しばらく上田城で一緒にそだてられた2人は、1575年顕景は、加冠し景勝と改名し、春日山城に入場、三の丸に住み、御中城様とよばれ、このとき与六(兼続)も上田から入った50騎組・長柄組30人の一人として春日山城に入場している。
上杉謙信公は、この景勝を気に入っていたようで、いくつか書状がのこっていて、
○「戦場にいる謙信の身を案じて祈祷させお守りをおくってくれてありがとう」という謝辞と、その追伸で字がうまくなっているので手本を贈るとあり、
○その手本として、謙信直筆で家臣の名前を連ねた書状をおくり手本とするように書かれたも残っている。
○また、鷹狩をしようと、謙信から景勝に手紙を書き、ちょうど行く途中で手紙をうけとり、その返事を景勝が書いたところ、楽しみにまっている旨の手紙をさらにかいたという書状もある。
という感じで、景勝公は上杉謙信公にわが子のようにわが子のようにそだてられた。(以上上杉家文書より)
それに先立つ、1561年より、北条氏康を牽制するために連年関東に遠征するようになり、関東の覇を競い合ったが、1560年の桶狭間の戦い以降、三国同盟として結んでいた、武田・今川・北条の三国同盟は、桶狭間の合戦にて微妙な関係となり、1567年、ついに同盟を破った武田信玄が今川氏真を攻めるために家康とかたらって駿河に進出、これを索制するために北条家は駿河に出兵するとともに、上杉家に同盟を求めた。この当時武田信玄の工作による本庄繁長の乱に手を焼き、1568年上杉謙信は同盟の意思を伝え、関東の支配権をめぐる問題を内在しつつ、1569年上杉・北条両家の同盟を締結した。この後、上杉謙信に武田信玄の背後をつくよう再三書状を送り、その中で1570年、北条氏康は、末子(7男)氏秀を養子とて差し出し景虎と改名され、春日山二の丸に入る。この景虎は景勝の2歳年上であった。これが後の後継者争いの火種となった。
なお、北条家と上杉家の同盟は、上杉謙信が武田への出兵を行わないため、1571年破棄され、北条家は再び武田信玄と同盟を結んでいる。





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最終更新日  2005年06月17日 02時16分56秒
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