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2005年06月18日
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昨日までの2回分読み返すとちょっと主語がわかりにくい文もあるなあとちょっと反省、加えて昔の国名なんでわかりにくいこともあるかなあと、、、ちなみに越後は今の新潟のことです。ということで、今回は関が原の導火線ともいうべき出来事を取り上げます。
1581年より、上杉景勝公は織田信長軍(柴田勝家・佐々成政ら)の能登越中攻めにあい、1582年5月越中(富山県)魚津城救援のため出兵した。
ところが、信濃(いまの長野県)を攻めていた森長可(ながよし)が、1582年3月武田勝頼を自刃させて、信越の国境をこえて越後(新潟県)に攻め込んできた。このため、上杉景勝公は、急遽信越の国境に近い本拠春日山城に帰城、6月2日本能寺の変が発生、織田信長は、明智光秀に攻め込まれ無念の死を遂げると、森長可は、急遽上京したため、大事にはいたらなかったが、
6月3日魚津城は落城した。その後、織田政権内に分裂が生じ、山崎の合戦(大阪の天王山近く)で、明智光秀を破った豊臣秀吉が、戦後の清洲会議で、主導権を握ると、1583年3月豊臣秀吉は、柴田勝家をしずヶ岳の合戦にて、奇襲にてやぶると、越前(福井県)の柴田勝家の本拠地を攻め落城、柴田勝家を滅ぼし、1584年佐々成政を越中(富山県)で討伐した。
1585年8月、豊臣秀吉は、主君の織田信長公が惨敗した相手・上杉家を非常に警戒するとともに、まともに対峙したときの損害など考え、臣従させたほうがよいと判断、大勢でいってははなしができないと、石田三成ら近習わずか38人をひきつれ突如越後(新潟)の国境に現れた。(このときアポなしでいって上杉景勝・直江兼続は非常におどろいたが、秀吉ならやりかねない、また、単身堂々と来る相手を討つのは仁義を旗印としていきていた上杉家の家風に合わないとして対談に向かった、、、という話もあるようですが、敵対する相手にアポなしで本当にいくものかとちょっと疑問もあるようなきもします)上杉景勝・直江兼続も12騎と従兵60名にて、国境の越水(おちみず、新潟県青海町)城に向かい、会談を行った。その会談も豊臣秀吉・石田三成と上杉景勝・直江兼続のわざか4人のみで行われたという。会談は4時間以上に及んだとされるが、その内容については詳細は知られていない。
後世の書物では「この際における胆気と、景勝の信義とは2つながら千古の美談たり。秀吉の赤誠は景勝の心腹に入り、金石の盟一夕になり」と書かれている。
個人的に思うには、この会見で豊臣秀吉は、天下の形成はすでに定まれし方向にながれており、天皇家を中心にすえた天下泰平の世について切々とのべ、天皇家に忠誠を貫いてきた上杉家の姿勢を高く評価しつつ、天下泰平のために、臣下として働いてはもらえないかという話を述べ、これに対し景勝が答えた形となったと思われる。また、この会談で、今後の問題について述べられ、この中で直江兼続も意見を積極的にのべ、家康を初めとした諸大名の状況とそれに対する戦略を述べたと思われる。この会談により、上杉家の臣従の方向性とともに、石田三成と直江兼続との義の盟約が結ばれたといわれている。石田三成の天皇家ー豊臣秀吉に対する中央の絶対的臣従中央集権と、直江兼続の天皇家を中心とした絶対的臣従という、意図が一致したためと思われる。1585年秀吉は、上杉景勝に上洛を促し、国内の内乱として新発田重家(会津の芦名家と内通)と抗争中でありながら(あったから?)上杉景勝公は5月20日上洛、6月12日聚楽第(京都)で秀吉の謁見をうけ、上杉の領国の確定をうけた。

☆6月15日に講談社から原作山岡荘八・横山光輝作のペーパーバックコミック「家康・関が原の章」がコンビニ・書店で発売になっています。小山評定からあとの範囲となりますが表の関が原をさらっとよむのにはいいかもしれませんね。先月でた「家康・日蝕月蝕の章」とあわせて読むとながれがわかりやすいとおもいます。

☆本日はいろいろとたてこんでおり、次の更新は日曜夜中にしようとおもいます。





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最終更新日  2005年06月18日 08時43分05秒
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